津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』 :TSUHARA crybaby
書評:津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)
Amazonレビューをざっと眺めて、いささか苛ついた。
読みもしないで酷い点をつけるというのは、ネトウヨたちがパヨク認定した著者の本に対して、いつもやっていることだし見慣れてもいるが、それに対抗する方も、まともな作品評価を置去りにして、「傑作」の連呼だの「文庫版を読め」のといった「政治運動」をやっている姿には、うんざりするだけでは済まない、大衆的な度し難さを感じさせられたからである。
(※ 幻冬舎文庫版『ヒッキーヒッキーシェイク』は、ここまで進みながら、津原の『日本国紀』批判により、版元の意向で刊行が打ち切られた)
言うまでもなく、作品レビューは「政治運動」のために書くものではない。作品を、その評者なりに正直に語るのがレビューでなのだ。
「我らの側に正義あり」といった「政治意識」で書かれた作品評価など、ネトウヨの悪口票と同じく、本質的に、信用できないものでしかないし、そんな誉め評価は、作品自体の信用をも貶めるものなのだ。
小説読みならば、そのくらいの常識は弁えてもらいたい。どんな小説を読んできたら、そんな愚かなことができるのか、ということである。
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さて、つまらない一部レビュアーに対する苦言はこのくらいにして、私の『ヒッキーヒッキーシェイク』評価を語ろう。
まず、お話としては、それほど新しくも面白くもないが、登場人物たちには惹かれるものがあった。たぶん、この作品を高く評価する読者の多くも、そこに魅力を感じたのではないかと思う。
例えば、ハヤカワ文庫版の帯には、担当編集者の本書への想いが、次のような言葉で語られている。
『文芸の価値』が、そんなにわかりやすいものだとは思わないが、「本書の魅力」がそのあたりにあるというのは間違いないと思うし、この言葉はそうした評価の傍証にはなろう。
さて、それでは本書における『このような美しい感情』とは、どのようなものなのだろうか。
それを書いてこそのレビューなのだが、とレビュアーへの苦言は、本当にここで止めて、肝心の「作品の核心」を書いておこう。
それは「子供の想い(幼心)」である。
本書のポイントとなるのは「子供の想い(幼心)」なのだ。
物語は、それを見え隠れさせながら展開する。
「ひきこもり」というものは、「大人の世界=大人の論理が規定した社会」に馴染むことのできなかった「子供」たちだと言えるだろう。「大人の世界」は、タテマエの立派さに反して、しばしば理不尽だし、うす汚い。
だから、それに順応できなかった人たちを、「純粋」だと賞賛することもできるし、「敵前逃亡者」だと非難することもできる。そして、この二つの意見は、どちらも、それなりに正しいのだが、当然その両立は容易なことではない。
しかし、この現実的困難について、文芸に描くべきものがあるとしたら、それはやはり「両立への希望」であろう。
本書が描くのは、単なる「子供の純粋さへの賛美=世間の理不尽さへの批判」でもなければ「逃亡者批判=現実世界の全的追認」でもない。その「両立への希望」なのである。
そして、そんな「希望」は、どこから生み出されたものなのか。
無論それは、津原泰水という人から生み出されたのだ。
津原自身が、ある意味で「子供」であり、「大人の世界」に対して順応しきれない違和感を感じている。
だからこそ、彼は「怒り泣き叫ぶ子供」のように、しばしば「大人の世界」に食ってかかる。むろん、そこには「大人の損得打算」など無い。津原が「子供」の直観で「こいつは(幼心の)裏切り者だ」と思えば、彼はそれを黙認することができなくなって、子供のように相手にむしゃぶりついていく。
そんな彼の姿は、たぶん多くの大人にとっては、ちょっと理解不能で理不尽なものにすら映るだろう。「なんでそこまで怒るの?」「津原の怒りスイッチは、よくわからないよ」という当惑を、津原の怒りは、周囲の大人たちに与えがちなのではないか。
しかし、彼の感情はいたってシンプルだ。彼が言いたいのは「おまえだって、昔はそうじゃなかっただろう。そんな損得ではなく、もっとシンプルな正義とか、理想とか、友達への想い(友情)とか、そんなものをこそ大切にしてたんじゃないのか。少なくとも、友達との間では、それこそが関係原理だったのではなかったのか? 裏切られたよ! お前を信じた俺がバカだったよ! 俺は悲しいよ!」一一そんな「幼心の側に立った義憤」が、彼をして「幼心の化身」にさせるのだ。
作中で語られる、ある子供が考えた「ロボットアニメの企画書」には、こんな言葉がある。
そして、それは、次のように評される。
一方、作中の「敵」の性格は、次のように描かれる。
津原泰水が最近、ケンカを売った相手を見てみるといい。「私はこんなに人気者ですよ」「それは数字にも表れてますよ」といった「自慢話」を、臆面もなく吐き散らせるような手合いではなかったか。
やつらは「社会的に高く評価されること」「社会的に力を得ること」が勝利であり正義であって、それがすべてなのだ。だから「売れない作家はダメ」だということにもなるのだが、しかし「文学というものの初志」つまり「文学の幼心」というものは、そういうものではない。大西巨人も言ったとおりで、「勝てば官軍」などではないのである。
「勝てば官軍」とは、社会に敗れ、迎合を余儀なくされた(文芸的)敗者の「言い訳(自己正当化)」に過ぎない。
彼らが、どんな言葉で自身を飾ろうと、彼ら「敗者」の顔は、醜く歪んでいる。
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すでにお気づきの方もあろうが、本稿のタイトルは、湯浅政明監督のアニメーション作品『DEVILMAN crybaby』(原作:永井豪)を踏まえたものである。この作品で、印象に残ったのは、この世の不条理に対する「子供の慟哭」の声だった。
津原泰水という「人」は、社会人としてはいささか「困った人」なのであろう。
彼がケンカを吹っかける相手というのは、決して「ケンカをすることで得をする」相手ばかりではなく、ごく身近な友人あることの方が多いのではないか。
なぜなら、彼のケンカは、子供のそれのように極めて「感情的」なものであって、大人のそれのような「打算的」なものではないからである。だからこそ、彼の「批判」は、殊に「感情的な批判」は、身近なものに向けられやすいし、異質な遠い存在に向けられた怒りは、逆に「極めて冷静」なものにもなるのである。
『DEVILMAN crybaby』のクライマックスで、主人公であるデビルマン=不動明は、度しがたく卑劣な人間たちに向かって、自分はそんな「人間」でもなければ、もちろん「悪魔」そのものでもない、「俺はデビルマン(悪魔人間)だ!」と泣きながら叫ぶ。
そして、津原泰水という人にも、こうした「二重性」がある。
「大人げないトラブルメーカー」であり、かつ「幼心の保持者」という「二重性」。
本書『ヒッキーヒッキーシェイク』で描かれた期待も、「このうす汚れた世界で生き抜く強さを持ちながら、それでも幼心を失わない人間であること」なのではないか。
無論、それは現実には容易なことでないというのは、津原自身が体現して見せてくれている。
しかしまた、それでも「正義や理想や友情といった奇麗事」を信じる心を失わない小説が、ここにある。
もちろんこれは「フィクション」であり、多くの読者は「ああ面白かった」「感動した」と言って、作品を消費した後は、また「勝てば官軍」の世界原理をそのまま是認する「大人の世界」に戻ってしまうことであろう。
それでもまた、本書で語られた「希望」や「子供の慟哭」の声は、どこかへ届いているはずだ。
たとえ、届いた先の人数が1800人どころか、5人、いや1人きりであったとしても、この作品は「祈りの言葉を届けた作品」として、その存在価値を静かに誇るはずである。
ならば、「美しい記憶(希望)」を遺した者こそが、真の「勝利者」なのではないだろうか。
初出:2019年6月12日「Amazonレビュー」(同年、管理者により永久削除)
再録:2019年6月14日「アレクセイの花園」
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