水島努監督 『SHIROBAKO』 : アニメ・クリエイターたちの、熱き息吹を感じよ!
作品評:水島努監督『SHIROBAKO』(TVシリーズ全24話・2014〜2015年)
アニメーション制作会社を舞台とした「お仕事アニメ」である。
本作については、放映当時はその存在すらまったく知らなかったのだが、アニメファンの間では、評判の作品だったようだ。
私が本作に興味を持つきっかけとなったのは、アニメ制作に邁進する女子高生トリオの姿を描いた、大童澄瞳によるマンガ作品を原作とした、同名テレビアニメ『映像研には手を出すな!』(湯浅政明監督)に興味を持った際に、同趣向の先行傑作として、しばしばネットで本作『SHIROBAKO』の名を挙げられたのを目にしたことであった。
私は、幼い頃からマンガよりもむしろアニメで育ったような人間で、高校生の頃には、拙いながらも友人と二人で短編アニメーションを作ったことがあるし、アニメーターになりたいと本気で思ったこともあるくらいだから、「アニメーションを作る人たち」の物語というのは、それが『映像研には手を出すな!』のようなアマチュアを主人公にしたのものであろうと、『SHIROBAKO』のようにプロを主人公にしたものであろうと、興味を惹かれないではいられなかった。
だから、実写映画ではあるけれど、アニメ制作業界を舞台にした吉野耕平監督の『ハケンアニメ!』(原作・辻村深月)も観ているし、アニメ制作ではなく「特撮映画」を作ろうとする高校生たちを描いた、小中和哉監督の実写映画『Single8』も観て、それぞれに感銘を受けている。
そんなことから、アニメ『映像研には手を出すな!』を、たまたまテレビで見かけて興味を持ったものの、しかし当時は勤めをしていて、しかも休みの曜日が不規則だったのと、そもそも読書を優先するために「テレビのシリーズものは、本放映では視ない」と決めていたので、続けて視る努力はしなかった。中古DVDが安くなった頃に、それでもまだ視る価値を認めているような作品だったら、その時には、まとめて視ようと考えたのである。
で、それは本作『SHIROBAKO』についても同じことだった。いずれまとめて中古DVDで視ようと思っていたのだが、一昨年に退職して時間に余裕ができたのと、この作品はすでに放映終了から8年も経っていたことから、昨年春には中古DVDを、安く手に入れていた。
しかし、読みたい本、観たい映画はいろいろあるし、特に退職後は、それまでさほど興味のなかった「実写劇映画」に、ジャンル総体として興味を持ち、そちらを「内外古典」まで観たいと考えたために、旧作アニメのDVD鑑賞は、どうしても後回しになってしまったのだ。
ところが昨年末、読書優先のため、意図的に買い替えずに10年以上使っていた「DVD・ビデオテープのダブルデッキ」がついに故障してしまい、買い換えざるを得なくなった。それでも、それがきっかけで際限のない「録画鑑賞」はしたくなかったので、ハードディスクデッキは買わず、シンプルなDVDプレーヤーを購入した。だが、当然のことながらこれで、「Blu-ray」が視られるようになって、視聴可能な作品の幅も、おのずと広がったのだった。
例えば、大好きなアニメ作品『けものフレンズ』(たつき監督)のDVDは、放映終了直後に購入していたのものの、これは「Blu-ray」版しかなかったので、このDVDで視ることはできなかった。だが、コレクションと思えば、それでよかったし、そもそも私は同じ作品を何度も視るようなタイプではなかったので、それで少しも支障はなかったのである。
ところが、DVDプレーヤーを買い替えたことで『けものフレンズ』が視られるようになっただけではなく、これまでは「Blu-ray」だけなので購入を控えていた、たつき監督の次作『ケムリクサ』も視聴も可能になって、まずはそれを購入することにした。
そして、このようにいったん「アニメDVD」が解禁状態になってしまうと、それまで気になりながら、長らく放置していた作品のDVDをあれこれを購入し始めてしまい、そのひとつが先日レビューを書いた、今川泰宏監督の『ジャイアントロボ THE ANIMATION −地球が静止する日』だったというわけである。
ちなみに、すでに『映像研には手を出すな!』も買ってあるし、同じ湯浅政明監督の『四畳半神話大系』も買ってある。
また『ジャイアントロボ THE ANIMATION』と同じ今川監督の『真マジンガー 衝撃!Z編』も買ったし、『マジンガー』とくれば『ゲッター』ということで、これも『ジャイアントロボ THE ANIMATION』と同じくOVA作品であったために、中途半端にしか視ていなかった『真ゲッターロボ 世界最後の日』(川越淳監督)も購入済みという調子である(アニメ以外でも、ザック・スナイダー版『ジャスティス・リーグ』など、いろいろある)。
そんなわけで、今回はすでに購入後1年近く寝かせてしまっていた『SHIROBAKO』を視ることにしたという次第であった。
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さて、本作『SHIROBAKO』である。
本稿で扱うのは、テレビシリーズの方だけで、後で作られた「劇場版」は、追って鑑賞したのち、別立てでレビューを書く予定だ。
本シリーズは、おおすじ次のような内容の作品である。
「劇場版」の「解説」から、テレビシリーズ本編の紹介部分を引用した。
高校のアニメーション同好会で一緒にアニメを作り「いつかまた、この5人でアニメを作ろう」と誓い合った仲良し5人組の女子が、卒業後はそれぞれにアニメに関連する職業に就いたり、就くことを目指している中で、「武蔵野アニメーション」というアニメ制作会社に「制作進行」スタッフとして就職した「宮森あおい」を中心に、アニメ制作の現場における、会社の同僚や外注スタッフなど、さまざまな人たちの姿を描いた、群像劇としての「お仕事ドラマ」である。
私は古いアニメファンだから、アニメ制作会社の雰囲気や制作工程、役割分担といったことはおおよそ知ってはいたが、この作品では、そのあたりが具体的に描かれていてとても興味深かったし、うすうす想像はしていたものの、「なるほどそうだろうな」という、現場のさまざまな大変さをリアルに知らされて、その意味でも、さらに興味深い作品だった。
ともあれ、本作を評価する場合には、そうした「楽屋ネタ」として情報的な面白さや目新しさと同時に、「アニメ作品」としてどれくらいよく出来ているのか、ということが問題になってくるわけだが、本作は「傑作」という評判を取っただけのことはあって、なるほど、総合的に見ても、とてもよく出来た作品であった。
一方、本作においては、「楽屋ネタとして面白さ」が大きいというのは否定できないところではあったものの、逆に言えば、現実のアニメ会社が、アニメ会社や業界にかかわるアニメを作るのだから、中途半端に無難な、キレイゴトだけの作品にまとめてしまっては、作る意味のない作品にもなってしまおう。
つまり「現場のリアル」を描かなくては意味のない作品なのだが、それは、現場を知悉しているだけに、どこまでリアルに描くか、それをどのように「ドラマ」に仕立てていくかなど、判断の難しいところも、多々あったはずなのだ。
言い換えれば、面白くはあれ、扱いの難しいネタを扱っているからこそ、その本気度の試される作品だったとも言えるのだ。本気でやれないのなら、やらない方がマシなネタだったということである。
だが、本作は、(現実の)アニメ制作会社「P.A.WORKS」が、自社制作のオリジナル作品として企画制作したものであり、言うなれば「決して失敗できない勝負作」であった。「アニメ制作会社を舞台とした作品」という難しい題材も、進んで選んだものだったのであり、だからこそこの作品からは、そうした「積極性」や「熱意」が感じられて、とても「感じの良い作品」に仕上がっていた。「自分たちの、良い作品」を作ろうという、単なる「仕事」の域を超えた熱量の感じられる作品になっていたのである。
アニメファンであれば、この作品を応援したくなるというのは当然のことであろう、「仲間意識」に似た感情さえ覚えてしまうような作品だったのだ。
ただし、では「作品」として「満点」かと言えば、そこまでは言えない。私の感じでは「87点」といったところだろうか。
「75点」を、一応の及第点とすれば、その意味では十分に「よくできた楽しい作品」だとは言えるだろう。だが、文字どおりの「傑作=傑出した作品」とまで言えるかというと、そう呼ぶには、少し「弱い」という感じもある。
例えて言えば、「傑作」というのは「オーラを放って、ちょっと近寄りがたい人」のようなものであり、本作の場合は「感じの良い近所のお兄さん」といった印象なのだ。
つまり「親近感の持てる、完成度の高い作品」ではあるのだけれど「圧倒される作品」ではないのである。例えばそれは、本作の中でパロディ作品が登場し、登場人物たちがそれを熱く語り合う作品、『伝説巨神イデオン』(富野喜幸監督)のような作品ではなかった(本作では『伝説巨大ロボット イデポン』として登場)。
本作の場合は、視ながら「共感したり、ニコニコしたりする」ことはできるけれど、「無意識に拳を握りしめて、画面を食い入るように視る」というほどのパワーまでは持っていない。そこらあたりで、もうひと押し欲しかったというのが、私の正直な印象でなのである。「好感の持てる作品」ではあったが、「私の好きな作品」としてその名を上げるほどの作品ではなかった、という感じだったのだ。
で、これはたぶん、水島努監督の「個性」と、私の「好み」とが、微妙にすれ違っていたからではないかと思う。
というのも、いつも言っているように、私の場合は、『あしたのジョー』や『エースをねらえ!』などで知られる出崎統監督のファンで、言うなれば「ハードドラマ」派である。要は「熱い濃いドラマ」が好きなのだが、水島監督の場合は、私も視たことのある作品で言えば、『ガールズ&パンツァー』や『侵略!イカ娘』などがそうであるように、時に熱いシーンもあるけれど、基本的には「明るく楽しくユーモアあふれてカワイイ」という感じが強く、少なくとも「重さ」や「濃厚さ」、ましてや「悲壮さ」などへの希求は見られない。むしろ「軽やかさ」の人なのだ。
だから、もちろん私とて「明るく楽しくユーモアあふれてカワイイ」も好きは好きなのだが、それで完全に満足できるかというと、そこまでではなかった、ということだったのである。
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ただ、「作品評価」の本筋とは違ったところで、水島監督には「同世代のアニメファン」として共感するところが多々あった。
本作で描かれる「武蔵野アニメーション」社内の壁には、現実の制作会社でもそうであるように、これまで制作に関わった作品のポスターと思しきものが、ずらりと並べて掲示されているのだが、その大半が、明らかにモデル作品のある虚構タイトルなのだ。タイトル名やキャラクターデザインを少し変えてあるけれど、知っている者が見れば「元ネタ」が明白な程度の「パロディ」的な表現になっているのである。
で、こうした点については、たぶんすでにアニオタ諸兄が「考察」して指摘済みだと思うので、そこを詳しく確認する気はないけれど、自分が好きな作品であったり、懐かしい作品であったりすれば、やっぱり目にもつくし、記憶にも残った。
そして、そうしたものには、前記の出崎統監督作品『宝島』だとか、子供の頃によく見た『男どアホウ甲子園』、『昆虫物語 みなしごハッチ』などがあったのだが、なかにはアニメ作品ではない『クレクレタコラ』なんていうマニアックな「実写の5分番組」も含まれており、こんなマニアックなことは、背景美術担当者が勝手にやるわけもなく、監督の意向を受けての背景設計だとわかった。
またこうした軽い「お遊び」には止まらず、前述の『イデポン』のように本編にパロディシーンまで登場するオマージュ作品として、『山ねずみロッキーチャック』(1973年・遠藤政治監督)のパロディである『山はりねずみアンデスチャッキー』なども登場するので「この監督は若くはないな。私と同世代だろうか?」と思って「Wikipedia」を確認したところ、やはり「1965年(昭和40年)」生まれで、私の3つ下だと判明した。つまり、おおよそ同じようなテレビ番組を視て育った人だったのである。
それにしても「あそびの部分とは言え、今風の萌えキャラが主人公のアニメ作品に、こんな古いネタを持ち出すか」と呆れはしたのだが、しかし、監督が「本気で楽しみながら作っている」というのは、こうしたところからもハッキリと窺えて、親近感や好感が持てもしたのだった。
また、さらには「業界ネタ」として、明らかにモデルいる登場人物が、脇役の中に多数いるようで、例えば「武蔵野アニメーション」の、料理好きの社長「丸川正人」のデザインを見た時に、私はすぐに「丸山正雄」の顔が思い浮かび、現時点で未確認ではあるものの、丸山がモデルではないかと思った。
「丸山正雄」とは、『日本のアニメーションプロデューサー。元・株式会社マッドハウス取締役社長、現・MAPPA代表取締役会長、スタジオM2代表取締役社長。』(Wikipedia)であり、「マッドハウス」とは『1972年10月、虫プロダクション(旧社)の従業員だった丸山正雄、出崎統、りんたろう、川尻善昭らが、同社の経営危機をきっかけに独立して設立。』したアニメ制作会社なので、私にとっての丸山は、出崎統の周辺人物として、昔からアニメ雑誌などでお馴染みの人だったのである。
このほかにも、ゲストキャラだが、明らかにモデルが「板野一郎」や「庵野秀明」だとわかるように描かれた人物が登場するなど、かなり多くの「業界ネタ」を突っ込んだ作品であるというのは、見るからに明らかな作品だった。
だが、私は、こうした「楽屋ネタ」自体には、さほど興味はない。そんな「オタク趣味」は、むしろ私の好まないところだからだが、こうした「楽屋ネタ」から窺える興味深い点とは、「業界の負の側面」を描いた部分も、まんまではないとしても、間違いなくモデルがあるのだろう、ということだったのである。
例えば、仕事に凝りすぎて予定を狂わせてしまう監督や原画マンといったことなら、まだ「好意的な業界あるある」のうちだから良いのだが、私が特に注目したのは、第14話の「仁義なきオーディション会議!」で描かれた、オーディション会議の様子である。
この中で『一癖も二癖もある人間が参加し、人気、歌唱、容姿といった芝居とは関係のない部分で、それぞれがゴリ押ししようと躍起になる。』と紹介されている人物たちの、リアルな存在が問題なのである。
彼らはどういう人物かというと、要は「スポンサー企業」の人たちなのだ。近年あたりまえに見かける「製作委員会」を構成する主要企業から派遣されてきた、アニメ制作の素人メンバーだ。
つまり、原作マンガの出版社や音楽配給会社(旧レコード会社)やイベント会社などを代表して会議に派遣されてきた面々なのだが、彼らは、新作アニメのための声優オーディションを受けての、声優を決めるこの会議においても、「良い作品を作るため」ではなく、「自社利益のみ」を追求して、その声優がキャラクターに合っているかどうかなどは二の次で『人気、歌唱、容姿といった芝居とは関係のない部分で、それぞれがゴリ押ししようと躍起になる。』のである。
「人気声優を使えば、番組も人気が出て、円盤(DVD)も売れる」だろうとか、「歌える声優を使ってもらわないと、音楽配信のネタにならないので困る。演技は二の次で良い。声なんてすぐに馴れるさ」とか「イベントで映えるような声優でないと困る。つまり、美人でグラマーで」といった自社利益のことばかり主張して、制作スタッフを困らせる。
この会議の様子を見ていると、明らかにスポンサー企業の面々の方が、制作スタッフ側よりも立場が上で、会議に出席しているアニメ制作会社側のプロデューサーや監督などのメインスタッフは、スポンサー企業様の「ご意向」を拝聴した上で、いかに彼らを丸め込むかで苦労しているというのがハッキリと窺える描写だったのだ。
結局、このオーディション会議は、上のストーリー紹介にあるとおり、ベテラン「音響監督」の誠実で説得力ある「一言」で決着がついたかのようにここでは書かれているが、じつは、正確にはそうとばかりは言えない本編描写になっている。
と言うのも、この会議は10時間以上も続いて紛糾した結果、スポンサー企業の面々が疲れ果てて、妥協的に諦めたという描写がなされており、「音響監督の一言」はあくまでも、作劇上のアリバイにすぎなかったのだ。要は、制作サイドの粘り勝ちだったというのが実際のところだし、だとすれば、現実のこうした会議では、いつもこううまく「粘り勝ち」できるわけではないだろうなと、その「苦労」が容易にしのばれたのである。
また、作中の新作テレビシリーズ『第三飛行少女隊』は、大人気マンガを原作とする作品であり、その意味でも、アニメ制作側の「原作者の意向への気遣い」が、いかに重いものか、それが、よく伝わってくる描写となっていった。なにしろ「原作者」は、「ゴッド」などという隠語で呼ばれていたのである。
私のような古いアニメファンだと、「原作とアニメは別物」という感じが常識的なものとしてあったけれども、そうした「おおらかさ」は、言うなれば「古き良き時代」の話であり、「アニメ化されても、大して儲かるわけではない」という時代の、古い「常識」でしかない。昔は、アニメ化されれば、子供がアニメを視て、そのキャラクターが印刷された「版権商品」が買い、その収益の一部が原作者にも入ってくるという程度の話であり、その金額はたかが知れていたのである。
そのため、昔の原作者は、自分の作品が「アニメになる」ということ自体が「うれしくて」、アニメ化の許諾を出したといったようなところもあった。だから、アニメ化作品の中身については、そんなにうるさいことは言わなかったのだ。
ところが、日本のアニメが「海外」に販路を広げて、その儲けが何百倍、何千倍にもなる作品が出てくると、もともとの人気作の原作者は「アニメ化するからには、世界に売り込める作品にしてもらわないと困る。この原作は、それだけのポテンシャルのある作品なんだから」という態度になってしまう。うまく作って、うまく世界に売り込んで貰えば、自分が左うちわの億万長者のなれるかも知らないのだから、その態度がシビアなものになるのは、致し方のないところだろうし、おのずとアニメ制作会社の方も、原作者や、原作者の代理人的な立場に立つ出版社などの意向については、十二分に配慮しないわけにはいかなくなったのだ。
つまり、「原作つきアニメ」というのは、多くの場合「人気作品」を原作とするだけに「ヒット作」になって大儲けできる可能性が高くなる分だけ、「ヒット作」にしなければならない、というプレッシャーも大きくなる。
しかし、良い作品を作ったからといって、それが必ずしもヒットするとは限らないというのが難しいところであり、ならば、少なくとも「原作者の意向どおりに作っておけば、結果としてヒットしなくても、言われたとおりに作ったのだから、こちらの責任ではない」という「逃げ道」を確保できるので、余計に「原作どおりのアニメ化」という傾向が強まり、ある意味では、アニメ制作スタッフの「個性」や「主体性」が失われる傾向が、こうした昨今の「人気原作つきのアニメ」には生じがちなのだ。
もちろん、原作者の意向どおりに作ったからと言って、ヒットしなくても良いというわけにはいかないから、実力のあるスタッフを金を遣ってかき集めてきて作るのだが、そうした作品には、やはりどこかで「失われるもの」がある。例えばそれは、アニメ・クリエイターたちの「遊び心」や「主体性」といったことだ。
そうした点で、こうしたいささか「業界内部告発」的な内容を含む「遊び心」のある作品が作れたのも、それはひとえに、本作がアニメ制作会社のオリジナル企画作品であり、原作者や出版社、あるいはスポンサー企業などからの圧力がないに等しいかたちで制作されたものであったからに他ならない。
本作の主人公の5人娘が、いくら今風の「萌えキャラ」的なデザインだと言っても、彼女たち自身は、超能力を持つわけでもなければ、派手な衣装を着て戦うわけでも、歌って踊るわけでもない「普通の人」なのだから、もともとキャラクター商品にはなりにくい企画であり、要は、最初からそこは捨てて「良い作品を作って、円盤(DVD)を売ろう」という、覚悟の戦略で作られた作品だということなのである。
だからこそ、製作スタッフたちの「熱意」も、本物だったのだ。金儲けのためだけではないのは無論、「原作者のために作るのではなく、自分たちの納得できる、自分たちの作品を作ろう。そして、ヒットさせよう」と。
本作に込められている「熱意」とは、そういうものなのだ。
こうした「商品展開」の難しい作品では、決して「予算」は潤沢ではなかったはずだし、ということは、外注スタッフに優秀な人を多人数雇うというわけにもいかない。限られた予算の中で良い作品を作るためには、できるかぎり「社内スタッフ」で頑張るしかなかったはずだ。
だが、だからこそ、ストーリーや演出の凝り具合に比較すると、「作画」面は「中の上」くらいの感じに止まって、やや物足りなさが禁じ得なかったというのも、そうした理由から来たものなのであろう。優秀な外注スタッフをバンバン利用するというわけにはいかなかったから、「無駄に凝ったカットやシーン」などはなかったということである。
また、作中では「最近のアニメーターは、動物が描けない」という問題が持ち上がり、そこで、社内ではすでに影の薄い存在になっていた高齢のベテランアニメーターが、頼られて活躍するという、これも古いアニメファンを泣かせる展開となっているのだが、その肝心の作中の「動物カット」が、描けるベテランが描いたという設定のものとしては、いささか物足りないのだ。実際に本作の当該シーンの原画を描いたのは、伝説のベテランアニメーターではなく、現役の比較的若い社内アニメーター(原画家)だったからだろうと、そのように窺えてしまった。
私は前に、アニメーターになろうと思ったことがあったと書いたが、そんな高校生であった私ですら、馬のデッサン練習をしたくらいだから、本編中の馬や牛や猫の作画が、決してうまくはない、というくらいのことはわかったのである。
だが、それでも、全24話もありながら、作画において、特に見劣りする回が一度もなかったというのは、賞賛されて良い努力の賜物であったと言えるだろう。
普通こうしたテレビシリーズなら、明らかに不出来だとか、力を抜いた回というものがあるものなのだが、本作に関しては、そうした回が皆無であり、平均して高い水準をキープしたまま、最後まで走り切っていたのである。
そして、そうした努力と熱意が伝わってくるからこそ、本作は「アニメファン」なら、思わず応援したくなる作品となっていたのだ。
たしかに、金をかけて、優れたスタッフを多数押さえ、言わば力づくで作った作品の方が、一見したところは「よくできている」し「素人ウケ」も良い。
わかりやすい例で言えば、人気原作つきアニメの「劇場用長編」なんかは、そうしたかたちで作られているわけで、そうした作品は、大宣伝を展開し、原作ファンを巻き込むことで、かなりの確率でヒット作になっている。
だが、本作の中でも、「武蔵野アニメーション」のプロデューサーだったかが語っていたように、「良い作品を作ったからといってヒットするとは限らないけど、やっぱり良い作品を作って、ヒットさせたいよね」という言葉には、深く共感するものを感じる。
彼らはプロだから、いくら良い作品を作ったところで、ヒットしなければ報いられることがないだけではなく、ますます困難な状況に追い込まれることになるから、まず「ヒットさせなければ」となるのも、当然のことであろう。
しかし、「ヒットすれば良い」のではなく、自分たちは納得のいく「良い作品」を作った上で、ヒットさせたいという「願い」は、「クリエイター・マインド」として決して失ってはならないものであり、かつ、アニメ業界の厳しい現状にあっては、きわめて貴重なものなのではないだろうか。
やはりアニメは、食い扶持を稼ぐためだけに作られるようなものであってはならないのだ。どんな芸術創作も、そうであるように。
だから、私たちアニメファンは、こうしたクリエイターたちの「地味な仕事」にも、きちんと目下りをして、適切な評価を与えなければならないはずだ。
何も「提灯持ち」をしろと言っているのではない。
派手な宣伝にただ踊らされるのではなく、こうした作品に込められた彼らの「心意気」を、的確に感じ取れるファンでなければならないと、私はそう言いたいのである。なによりも、日本のアニメの明日のために、それが必要だからだ。
(2024年1月18日)
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