スザンナ・キャラハン 『なりすまし 正気と狂気を揺るがす、 精神病院潜入実験』 : 米国版・ リアル 『ドグラ・マグラ』
書評:スザンナ・キャラハン『なりすまし 正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』(亜紀書房)
正気と狂気の境界は曖昧である。一一と言うよりも、それはよく言って「揺れ動いて」おり、身もふたもなく言ってしまえば、そもそも「境界など存在しない」。
だからこそ、私たちは「狂気」というものに惹かれる。無意識にそこから目を逸らすという行動も含めて、私たちはそれに魅せられており、本当の意味では、それを無視することなどできない。
「正気の私」が「狂気の私」を判定することなどできないのだから、今の自分自身が「狂気」の中にあるとかないなどということは、誰人にも判定のしようがない。すでに、私は、そしてあなたは「狂っている」かもしれないのだ。だから、怖い。
夢野久作の名作、「怪奇幻魔の書」と呼ばれた探偵小説『ドグラ・マグラ』は、精神病院を舞台とした「狂人たちによる狂人たちのための狂人たちの探偵小説」であり、それは「脳髄の殺人としての狂気という犯行を、理性という名の脳髄探偵が謎解きを試みるミステリ」であり、言うなれば「脳髄世界における探偵小説」だと言えよう。
(松本俊夫監督・映画『ドグラ・マグラ 』より)
一方、本書は完全に、この「現実世界」を対象とした「ノンフィクション」である。一一ところが、本書は『まさに謎が謎を呼ぶ、ミステリー小説を読んでいるようなスリルをあたえてくれる』(P417「訳者あとがき」)、まるで『探偵小説のような説得力』(米『エコノミスト』誌評)を持った作品であり、本朝の『ドグラ・マグラ』を彷彿とさせずにはおかない「暗い迷宮性」を持っている。
またそれでいて、決して本書翻訳版の「装丁」や「惹句」から印象されるような「キワモノ」ではない。
本書は、きわめて誠実に「精神医療」の問題に向き合い、その現実を徹底的に探求した、元『ニューヨーク・ポスト』紙記者による『調査報道』の傑作なのだ。
「狂気」という捉えどころのない難問にかかわる「患者と医師」たちによる、底知れぬ「地獄めぐり」を描きながら、それでも希望を捨てようとはしない著者の姿が描かれた、稀有な金羊毛探求譚だとも言えるだろう。
(精神病院潜入実験を行なった、デイヴィッド・ローゼンハン教授)
これは、あくまでも「ノンフィクション」である。だから、怖ろしい。
本書は一見したところ、「偽患者」が「精神治療」の現実を暴く、いかにもアメリカ的な、一種の「冒険小説」といった趣の印象を与えるかも知れない。しかし、本書が『探偵小説』という古くさい言葉で評されるのは、けっして故なきことではない。
本書の主人公は、「精神病患者」ではなく、まさに「精神科医(研究者)」だ(呉一郎ではなく、正木博士なのだ)。
「精神病院の闇」を暴いたとされた「伝説的な精神科医」の中に潜んでいた「闇」を暴く作品であり、その「闇」に巻き込まれていった「精神医学界」を描いた作品だとも言えるだろう。つまり「狂っているのは、どちらだったのか?」「癲狂院の鉄格子の、はたしてどちらが内側であり外側であったのか?」と問うているのである。
そして、それでも私たちは「狂気」と向き合いながら、「狂気」を乗り越えていかなければならない。それが紛れもない「現実」だからだ。
このように、本書はけっして「娯楽作品」ではない。40ページにも及ぶ「原註」を含む460ページの大部は、けっしてダテではない。本書が描き出すのは、いち精神科医の問題でもなければ、いち個人の「内面」の問題でもない。本書は、米国精神医学会の歴史を描出するものでもあれば、それはまた、私たち日本の精神医学界の歴史に反映した歴史でもある。
読者は、この「重くて暗い、それでいてサスペンスフルな地獄めぐりの物語=リアル『ドグラ・マグラ』」の洗礼を受け、一一いったんは自覚的に「発狂」すべきなのだ。
初出:2021年5月17日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
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