ルース・ベネディクト 『菊と刀』 : 究極の 〈アームチェア・ディテクティブ〉
書評:ルース・ベネディクト『菊と刀』(光文社古典新訳文庫ほか)
本書は、文化人類学者ルース・ベネディクトによる「日本人論」として、あまりにも名高い「名著」であるが、当今の日本人には、意外に読まれていないのではないかという疑いが私にはある。
というのも、本書は「日本人論」の嚆矢であり、その後に、「古典」としての本書を踏まえた、日本人著者による評判の高い「日本人論」本がいくつか書かれているため、「いまさら古典を読まなくてもいいだろう。研究成果の積み重ねという側面を持つ学術書の場合は、最新のものを読むにかぎる」と考える人も、少なくないだろうからだ。その意味では、「文学における(読むべき)古典」とは、少々事情が違うからである。
まして、ベネディクトの『菊と刀』は、戦勝国アメリカが、日本に対する占領政策の必要性という政治的意図からおこなった基礎研究をもとにしたものなので、そこにはおのずと「勝者の偏見(上から目線)」が混じっていた、とする批判もあり、日本人の一般読者からは感情的に敬遠されやすい、という側面もあった。
つまり、ベネディクトの『菊と刀』は、古典的「日本人論」としての「歴史的価値」は高いかもしれないが、今も通用する「日本人論」になりえているか、と言えば、相応の「疑問」もありそうで、それならば、その後に書かれた「日本人による日本人論の名著」を読んだ方が良いのではないか、と考える人が少なくなくても、決して不思議なことではないからである。
そしてかく言う、私もずいぶん以前に、中根千枝『タテ社会の人間関係』、山本七平『日本人とユダヤ人』『「空気」の研究』、河合隼雄『中空構造日本の深層』といった作品を、それぞれに面白く読んでいた。
しかし私の場合は、せっかくそこまで読んだのだから、いずれはベネディクトの『菊と刀』も読もうと思っていた。そう思いながら、しかし長らくそれを果たせず、今回やっと読むことができたのだが、その結果は、一一やはり本書は「古びない古典的名著」だというものだった。
つまり本書には、後の「日本人論の名著」においても乗り越え得ていない「独自の美点」が多く存し、そうした点で本書は、いま読んでも唸らされるような、鋭い洞察に満ちた「日本人論」となっていた。
だから、これは単に「最初の日本人論」なのではなく、文字どおり「古びない古典」であり、今も昔も「日本人なら読んでおくべき名著」となっているのである。
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さて、ベネディクトの『菊と刀』に対する「批判」とは、おもに二つのパターンがある。
一つは、前述した「上から目線の偏見がある」といった趣旨のもので、C・ダグラス・ラミスによる批判がその代表だが、『菊と刀』を読めばわかるとおり、決してベネディクトは「上から目線」などは持ち合わせてはおらず、むしろ、文化人類学者としての「文化相対主義」に立っていたので、アメリカ人の読者に向けて「自分たちの価値観を押しつけてはいけない(自分たちの価値観という色眼鏡で、他者を見てはいけない)」ということを強調しており、むしろ彼女自体は「特定目線への批判者」だったと言える。
だが、そもそも『菊と刀』の元になった論文が、アメリカの占領政策のための基礎研究として書かれたものであってみれば、少なくともそれが「アメリカのために書かれたものであって、日本のために書かれたものではない」という「事実」において、「戦勝国であるアメリカ目線」だと見る「立場論」的批判も、ある程度は避け得ないものではあったのかもしれない。
『菊と刀』への二つ目の批判とは、細かい部分で「事実誤認」がいくつかあるという点と、ベネディクトの「日本人論」は、その踏まえている「事実」が極めて限定的であり、その意味で独断的だとする、主に「日本人研究者からの批判」である。
しかし、こちらの方は、ほとんど無い物ねだりの無理筋批判と言ってもいいだろう。
なにしろ、ベネディクトは、一度も日本を訪れないままに、GHQが収集した各種の資料を読み込むことにより、たったの数ヶ月で原論文を書いたというのだから、これはほとんど「神業」といって仕事であり、こんな仕事は日本人研究者の誰にもできなかったであろうことは、明白だからだ。
日本に長らく住んでいて、日本の風俗に日常的に触れ、日本人のメンタリティーにあふれた書物を山ほど読んでいる日本人研究者が、たとえベネディクトの何倍にもなる年月をかけようと、このような「古典的日本人論」は書けなかっただろうし、事実としても書けなかった。
実際、後に書かれた「日本人による日本人論の名著」と『菊と刀』の違いとは、前者の美点が「日本人の原理」を端的に剔抉する「図式的な面白さ」にあるのに対し、ベネディクトの『菊と刀』は、文化人類学者らしく、極めて幅広い事象から「リアルな原理」を引き出している、という点にある。
言い変えれば、前者は「膝を打って、なるほどと声を上げる=目から鱗」式の面白さであり、ベネディクトのそれは「う〜む、なるほど」という重い説得力を持つタイプなのである。
だからこそ、前者つまり「日本人による日本人論の名著」に対しては「その踏まえている事実が、極めて限定的である」などといった批判は、ほとんどなされない。それは、これ等の著作は「批評的日本人論」であって、『菊と刀』のような「学術研究書」ではない、という読み手の意識があったからだろう。「そういう解釈もあるし、鋭いと思うよ」といった評価で済まし得るものであったのだ。
まただからこそ、そうした違いにおいて、学術研究書としての『菊と刀』には、鶴見和子(比較社会学)をはじめとした「学者」からの、「事実誤認」や「フィールドワークの乏しさ」「参照資料の限定性」等に対する批判が寄せられもしたのである。
しかし、繰り返すが、それは所詮「無い物ねだり」でしかない。
『菊と刀』は、著者自身が現地に長年居住しての現地調査によって書かれたようなものではないし、それは著者の怠慢でもなんでもない。
それに、同書の「目的」は、決して「総体的日本人論」ではなく、「占領政策に役立つ範囲での日本人論」であったのだから、日本に生まれ育った「地の利」を持つ日本人研究者が「おまえなんか、日本人のことを何も知らないくせに(これぽっちしか知らないくせに)、利いたような口を叩くな」などと批判するのは、ほとんど「負け惜しみ」でしかないのである(鶴見和子が、そう言ったという話ではない。念の為)。
そして、そうした意味で、日本人研究者による『菊と刀』批判は、個々の指摘(ミクロな批判)としては間違ってはおらずとも、本質的には(マクロな批判としては)「当を得た批判」ではなかった、と言えるのである。
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それでは、なぜベネディクトには、GHQの収集による膨大な資料が与えられたとは言え、たった数ヶ月で、見事に「日本人の本質」を突く(『菊と刀』の元となった)論文が書けたのだろうか。
それは無論、彼女が文化人類学者として経験や知見だけではなく、「天才的な直観」を持っていたからである。それが無ければ、短期間の資料研究で、このように「当を得た日本人論」など書けるわけがない。
彼女の「非凡さ」を、すこし捻った言い方をすれば、彼女は、単に「地道な資料分析」をしただけではなく、そこに「現象学的本質直観」を働かせていたからこそ、短期間で一気に「本質を掴む」ことができたのである。
そして、こういう彼女の「資質」として注目すべきなのは、彼女が人類学者を志す以前に「作家」を目指し「推理小説」の執筆を試みたことがある、というユニークな経歴に求めることもできよう。つまり、彼女の『菊と刀』は、多分に「シャーロック・ホームズ」的なのだ。
ホームズの推理とは、一見「事実資料に基づく、論理的推理」であるかのように見えるが、実のところそれは、その「非凡な直観」に支えられたものである。
部屋に入ってきた客に「きみは、さっきどこそこで、こうしてきただろう。それで、こうした要件で私のところへ来たんだね」式の、透視術めいた指摘をして客を驚かすが、その後、その洞察の根拠を論理的に示して見せて、さらに客を驚かせる。例えば「きみの靴には、ずいぶん泥がついているね。しかもその泥はとても黒くて特徴的だ。また、その泥の渇き具合からすれば、それは直近のどこそこの泥に間違いなかろう」といった説明をくわえる。これで客は「なるほど」と、ホームズの神がかった観察眼と合理的な推理法に感心させられるのだが、しかし、こうした「推理」は、必ずしも「正しい」という保証はない。
と言うのも、「いくつかの事実」に関する「解釈」というのは、原理的には無限に存在するからで、ホームズの推理というのは、そうした「解釈」のなかで、比較的「説得力のある解釈」にすぎないのだ。
だから、ホームズの推理を「正解ではない=唯一の答ではない」と批難する人は少なくないし、それは間違いではない。ホームズの推理が、いつも「正解」なのは、作者がそれを「正解」だと決めて、作中世界における「正解」として保証しているからに過ぎないのである。
そして、ベネディクトの「日本人論」も、この「ホームズの推理」と、その「本質」を同じくするものだと言えるだろう。「現場」には立たず、「容疑者」を直接取調べしなくても、「真相」を言い当ててしまう式の「推理」である。
だから、「学者」たちは、そうした「推理=解釈」を「十分な事実」に基づかないものとして、「学者たちの本能」にしたがってこれを退けたがるのだが、しかし、「日本人論」が扱う「日本人の本質」というものは、もともと「正解=唯一の答」が存在する類いのものではないのだ。
そこには、無限の「日本人解釈=日本人理解」しかなく、ただ、その「解釈=理解」は、それぞれの「説得力」において、「事実としての優劣を持つもの」だったのである。
だから、ベネディクトの『菊と刀』が、日本人学者を満足させられるほどの「広範な事実」を押さえていなかったという事実は、必ずしも『菊と刀』の欠点となる要素ではない。
「料理」というものが「たくさんの材料を使って、時間をかけて作れば、かならず美味しくなる」というものではないのと同様、「かぎられた素材」しかなくても、そこに加工者(調理者)の「非凡な直観と手際」が加われば、それは「無駄に手の掛かった料理」などより、よほど優れた「作品」になるというのは、理の当然なのである。
「日本人の本質」というものを、「正解=唯一の答」的なものと誤認するからこそ、ベネディクトの『菊と刀』という「天才的著作」にたいする「無い物ねだり」的な注文もつくわけなのだが、ベネディクトに与えられた条件と、その結果(成果の偉大さ)を考え合わせれば、やはり『菊と刀』は「古典的名著」であり、ベネディクトは「天才的直感」を持つ「非凡な学者」として顕彰されるべきだと、私は斯様に結論するのである。
ちなみに、シャーロック・ホームズは、けっして「現場に立たない探偵」ではなく、しばしば「現場検証をおこなう、行動的探偵」であり、その意味では、部屋に居ながらにして推理をする「安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)」ではなかったが、ベネディクトの場合は、日本に一度も来たことがないまま、資料だけで『菊と刀』を書いたというのだから、これはもう完全な「安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)」であったと言えよう。本稿のタイトルは、そういう意味を持たせたものである。
そして、そんな彼女にとっては、資料集めをしたGHQの職員たちは、「非正規の研究助手」であり、さしづめ「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」だったのではないだろうか。
初出:2020年4月30日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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