青木美希『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』 : 〈消される真実〉を消させない記者が、消される時代
書評:青木美希『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』(朝日新聞出版)
日本政府にとって、被災者を受け入れている自治体にとって、なにかと「不都合な人たち」が、今日もどこかで、こっそりと消されていっていることを、私たちは知らない。
それを知ろうとしないかぎり、消されたものに気づく人などいないのだ。
「被害者」や「被災者」が、政府や他の国民によって救われるなど考えるのは、イマドキ「おめでたい」考え方だと言っても過言ではない状況が、今の日本を覆っている。
例えば、私の住む大阪は、現在、三度目の「緊急事態宣言」が発令され、昨日、その延長が決まったところだ。そして、その昨日、大阪でのその日の死者数は「50人」を数えて、過去最高を記録した。大阪だけで、昨日一日だけで「50人」もの人が、コロナで死んだのである。
だが「多いな」とは思っても、それほどの衝撃は受けない。もう、ここ1ヶ月ほどは毎日、10~20人の人が亡くなっているのだし、40人という日もあったのだから、50人という数字が記録されても、いずれ記録されるだろうと予想されたものとして、いまさら驚くには値しないからだ。
しかし、これが「爆弾テロ」によるものであったら、一度に50名もの死者が出るようなテロであったなら、日本国中大騒ぎになって、政府も内閣を緊急招集して対策会議を行っただろう。少なくとも「オリンピックを予定通りにやろう」などとは言わなかったはずだ。
だが、コロナによる死者は、大阪だけで毎日20名近く発生しており、大阪のどこかでテロの爆弾が毎日炸裂しているも同然なのに、誰もその恐ろしさが実感できていない。自分の家で、職場で、その爆弾が炸裂するかもなどと恐れたりはしていない。「対策を取ってますから」大丈夫だろうと、そう思っている。
そして、そんなわれわれは、「数字」に還元された死者たちの、「顔」を見ることができない。
これが、テロの被害者であれば、災害の被害者であったなら、名前が読み上げられ、少しはそうした多くの死に実感を持つことができたのかも知れないが、コロナによる「死者の名前と顔」は隠されているから、私たちは、その死にリアリティーを感じることができないのだ。
そして、本書に語られるとおり、「原発事故関連被災者」の「名前」もまた、私たちの前からは消されており、そればかりではなく「被災者数」すら、順次消されていっていて、もはや「被災者」はほとんど残っておらず、平和な日常に復帰したかのように、感じさせられている。しかし、これは「嘘」である。
「コロナによる死者」が、まるでいないかのように見えないのと同様、「原発被災者」もまた、意図的に消されていっているのだ。
なぜか?
それは、彼ら「原発被災者」が「コロナ患者」と同様に、「社会のお荷物」とされているからだ。
無論、誰もそんな言葉を口にしないし、ましてや政治家がそんなことを「皆の前で」口にしたりはしないだろう。だが、ごく稀に「本音」を漏らしてしまう不用意な人もいる。
「そういう人たち」とは、「原発事故被災者」であり、生活支援を必要としている「移住者」たちのことである。
「役人は冷たい」「政治家も冷たい」と言う人は多いだろう。
しかし、私たちだって「自粛要請されているのに、飲み会をやって、コロナに罹った奴なんて、入院させる必要などない(勝手に死ねばいい)」くらいのことは、人前では言わないまでも考えていることだろう。「奴らは、社会のお荷物なのだ」くらいの感覚で。
もちろん「原発事故被災者」と「飲み会コロナ感染者」を同じようには語れないが、それにしても「自粛は自粛であって、お願いされているだけだから、従わなくてはならない義務があるわけではない」のだから、それでコロナに感染しても、治療を受ける権利が「国民」にはある。国には、そうした人たちの命を救う「義務」と「使命」があるのだ。
だが、この国は、そうした場合、本人の行動内容を問い、「自己責任」だと言って放置するのが習い性だし、国民の少なからぬ部分も「そうだそうだ」と政府の対応を支持した過去があるのだから、「好きでコロナにかかったも同然の奴」「好きで原発の近くに住んでいた奴(国からの補助金で助けられていた自治体の住民)」あるいは「被災者となって、賠償金をたんまりもらっている奴」のことなど、国民のどれだけが「本気で」気にかけているだろうか?
お金のかからない「少数被害者」なら、可哀想可哀想と、いかにも優しげに同情を示す人ばかりだろうが、莫大な税金が投入される「大量被害者」が出た場合、彼らに税金を費い続けることを、国民のどれだけが「本気で」支持し続けるだろうか?
先の戦争での「中国残留孤児」や「シベリア抑留者」たちに、この国は何をしただろうか? 「棄民」という言葉で、それらは語られたのではなかったか。
「どこまでそういう人たちにおつきあいしなければならないのですかね」
冷たいのは「役人」だけか? 「政治家」だけなのか?
「役人」や「政治家」は、そのほかの一般国民とは違って、特別に「冷血動物」なのだろうか?
もしも私たちが、本気で被災者に同情するのであれば、せめて、この問いに「それでも私は彼らを守る」と答えられるようにしておくべきだろう。そうでないと、私たちはそのうち「見なかったことにする」ようになるだろう。
「だって、数字にも、どこにも出てこないのだから、もう困っている人はいないってことでしょう? 彼らはみんな、元の平和な日常を取り戻したってことなんでしょう? それなら、もういいじゃない。いつまで過去のことをほじくり返すんだよ。そんなにお金が欲しいの? あんたは、あいつらで稼いででもいるの?」なんてことを言い出すような人間に、うっかりなってはしまわないだろうか。
だから私たちは、自分の意志で「見よう」としなければならない。誰かが見せてくれるのを待っていても、見えはしない。そして「見たくないもの」は、金輪際、見えないのである。
本書著者の経歴は、次のとおりで、実に見事なものである。
しかし、本書でも描かれているとおり、「管理者になるか、現場に残るか」と問われて「現場に残してください」と言っていた彼女が、今は「現場」から外されていると言う。これはどういうことなのか?
「Together」には、次のような「まとめページ」がある。
真相はわからない。
だが、「コロナ死者」が見えなくされているように、「原発被災者」や「避難者」が消され続けているように、本書著者のような「国家意志に対して反動的な記者」が「消される」というのは、ごく自然なことであり、疑う根拠は十二分にある。
だから、青木が「原発避難者」たちを消させないよう奔走したように、私たちもまた、彼女を消させないようにしなければならない。それには、知ること、そして声を上げることが必要だ。
そして何よりも、青木美希のように、諦めないことが重要なのである。
初出:2021年5月8日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
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