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アルフレッド・ヒッチコック監督 『疑惑の影』 : ミステリマニア登場す。

映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『疑惑の影』1943年・モノクロ映画)

本作『疑惑の影』は、ヒッチコックお得意の「サスペンスミステリー」だが、ヒッチコックらしい「妙なユーモア」は影を潜めて、わりあいオーソドックスに仕上がっているところが、かえって私には好感が持てた。

タイトルのとおり、本作は、主人公のハイティーン「シャーロット・"チャーリー"・ニュートン」が、彼女の母の末弟として久しぶりに訪ねてきた“チャーリー”叔父さんに、凶悪犯罪者としての「疑惑」を募らせていくという、『レベッカ』にも通ずる「心理サスペンス」ものである。

なにしろ本作は、夢見るお年頃の少女のつらく苦しい心理を描いた作品なので、ヒッチコックらしい「とぼけたユーモア」を前面には出しにくかったのであろう。
だがその一方、主人公の「内面の葛藤」に気づき得ない幼い妹や弟をユーモラスに描いていた点は、個人的にはとても楽しめた。それが「怪我の功名」的なものだとは言え、である。

視点人物である主人公のシャーロットは高校生くらいの女の子だが、その妹のアンは、小学校高学年くらいで、本が大好きな理屈っぽい女の子。お約束どおりに「メガネっこ」で、読書家のパパに対して「どうしてパパの本棚の本を読んじゃいけないの?」と強い口調で追求し、パパが「怖い夢を見るからだよ」と説明すると、アンは「知ってるわよ、探偵小説ばかりだからでしょう?」などと鋭くつっ込んだりするのだが、そんな「こまっしゃくれたところ」が、かえって子供らしくて可愛かったのだ。
なお、この時代はまだ、探偵小説(ミステリー小説)は「通俗読み物」として低級視されていたから、大人はこっそりと読んでも、子供には読ませたくなかったということなのであろう。
ちなみに、アンが、誰からだったか「何を読んでいるの?」と聞かれて「『アイヴェンホー』よ」と答えるシーンがあったが、そういう、すでに「古典」となっている歴史活劇なら、問題はなかったということなのであろう。一種の権威主義的な「良識」文化が生きていた時代だったのである。

(アンに、新聞で「紙の家」と作ってみせるチャーリー叔父だが、この新聞には…)

ともあれ、こうした描写からもわかるように、ヒッチコックは、この当時のアメリカの(平均的な)家庭を、じつに生き生きと、好意的に描いている。
ヒッチコックは、大戦前に祖国イギリスからアメリカへ渡った人だし、アメリカの「戦意高揚映画」も撮った人なのだから、アメリカを好意的に描くのは、いわば当然のことであろう。

だが、そうした実際的な要請からだけではない「アメリカ理解」があったようで、「疑惑の影を背負った、“チャーリー”叔父さん」がやってくるまでの、明るい「ニュートン一家」の描き方は、まるで、(アメリカの市民生活を好んで描いて、人気のあった画家)ノーマン・ロックウェルの絵のように微笑ましく、生き生きとしたものになっている。

(ニュートン一家のそれぞれに立派なお土産をわたす、羽ぶりの良さそうなチャーリー叔父)
(ノーマン・ロックウェルの代表作のひとつ。『疑惑の影』にも、このように「人の良さそうなお巡りさん」が登場する。)

また、あらためて感心したのは、ヒッチコックの「空間処理」の巧みさである。
いまさらの指摘でしかないが、「大小」「高低」「内外」を動的に捉えて、なめらか、かつ臨場感のある「絵」を撮っているのだ。

(物語後半、シャーロットの孤独と悲しみを見事に表現したショット)

さて、話を「ミステリー小説」に戻そう。
ミステリマニアが、本作の邦題『疑惑の影』を目にすると、確実に思い出すのが、「本格ミステリの巨匠」ジョン・ディクスン・カーの作品『疑惑の影』だろう。
だがもちろん、本格ミステリ(論理的な謎解きに主眼をおいたミステリー小説)が嫌いなヒッチコックは、カーの作品など2冊と読んではいないだろうから、この作品もカーの『疑惑の影』の映画化作品というわけではない。
本作の原作となったのは、サリー・ベンソンという女性脚本家が「ゴードン・マクドネル」名義で書いた短編小説か映画脚本で、こちらのタイトルは映画と同様『Shadow of a Doubt(疑惑の影)』であり、カーの方の原題は『Below Suspicion(疑いの下で)』と違っている。

そんなところで、私が面白いと思ったのは、この作品の原作者も、男性名義にはなっているものの、じつは「女性作家」だという事実であり、本格ミステリが性に合わない「サスペンス映画の巨匠」は、「女性的な感性」との相性が良かったのではないか、という点だ。

こう書くと、昨今では「女性には、論理性がないと言うのか」とお叱りを受けそうだが、もちろん、アガサ・クリスティのような優れた「女性本格ミステリ作家」が存在するし、男性一般が「論理的」だなんてことはあり得ない。男性の大半は、単に「理屈っぽい」だけで、中身的には「非論理的」な者が大半なのである。

ただし、かつての女性には「論理性」よりも「感受性」に優れた人が「目立った」というのは事実であり、それが「社会的に醸成されたもの」だったのか、それとも「性別特性」的なものだったのかは、私にはわからない。
私がここで問題としているのは、あくまでも本作制作当時の「常識」だった「女性観」では、「女性は男性よりも感受性に優れている」と考えられていて、「ミステリー小説」界でも、女性作家は「本格ミステリ」よりも「心理サスペンス」を得意とする人が多かった、という事実である。

そして、ヒッチコックとの関係で、そうした女性作家として、まず想起されるのは、『見知らぬ乗客』の同名原作を書いた、パトリシア・ハイスミスなのではないかと思う。

もちろん、カラーになってからのヒッチコックの代表作の一つである『裏窓』の原作者は、男性作家のコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)なのだが、この人も「本格ミステリ」より「サスペンスもの」を得意としていたし、『裏窓』を見てもわかるように、これは「心理サスペンス」ではなく「シチュエーション・サスペンス」とでも呼ぶべきものである。

つまり、こうしたことからわかるのは、ヒッチコックが好むのは、「状況的」に生み出される「サスペンス」であって、「心理(描写)」全般ではなかった、ということてあり、事実、本作で描かれる主人公のシャーロットの心理も、さほど深いものではない。
また、「サスペンス」を好んだヒッチコック自身、たぶん「女性的な、心理的繊細さ」を持っていたというよりは、その「不安神経症」的な心理を、当時「か弱い(ものと思われていた)女性」に投影しやすかった、ということなのではないだろうか。

(憧れの叔父さんの正体を知って悲しむシャーロット)

しかしながら、「不安神経症的」というのは、意外に「男性的」なものではないかと、私などは考える。女性の方が「いざとなれば強い」という印象があるからである。

さて、ここまでは「前振り」のようなもので、私が本稿で特に取り上げたかったのは、本作には2人の「ミステリマニア」が登場して「ミステリ談義」をする、という点である。

「2人のミステリマニア」とは、主人公チャーリーの父ジョセフと、その「ミステリ愛好仲間」のハーブという中年男性だ。
この二人はいつも「殺人方法」談義をしていて、「こんな殺人方法(トリック)の小説を読んだ」とか「こんな殺人方法を考えた」とか「僕が君を殺すなら、この方法を使う」といった無邪気な議論を楽しんでいるのだが、ここで面白いのは、ハーブの方がヒッチコック映画にはいかにも不似合いな「本格ミステリマニア」であり「意外な殺人トリック」とか「完全犯罪のためのトリック」などを好んで語るのに対し、ジョセフパパの方は、そういう理屈っぽいのは嫌いで、「自分なら」ゴルフクラブだかバットだかで「ぶん殴る。そのほうが話が早い」とか「風呂に入っている時に、両脚を引っ張って溺死させる」など、いかにも「即物的」な「ハードボイルド派」である、といった点だ。
そして、そんなジョセフパパが、ハーブが「面白い」といって紹介した「シャボン玉を凶器にする」というトリックを「非現実的で、馬鹿馬鹿しい」と馬鹿にするシーンがあったのだが、小栗虫太郎を知っている日本のミステリマニアとしては「それも書きようだよ、ミステリ初心者くん」と言いたくなるような愉快さもあった。

(小栗虫太郎の作品集『白蟻』)

ただし、本作に即して言うなら、この「ミステリマニア」の二人は、前述のとおり「本格ミステリ」マニアと「ハードボイルド」マニアであって、ヒッチコックの好きな「サスペンス・ミステリー」マニアではない、という点が重要だろう。

実際、もとは憧れていたチャーリー叔父さんへの「疑惑」を深めていったシャーロットは、この「オタク」二人が、食卓でも「殺人談義」をするのに苛立ち、声を荒げてそれをさえぎるというシーンがある。
つまり、このシーンでは「殺人方法などどうでもよい。あくまでも重要なのは、(どうサスペンスを盛り上げるのかという)心理(操作の部分)なのだ」という「ヒッチコックの映画思想」が、暗に語られていた、あるいは「無意識に反映されていた」のではないだろうか。
ともあれ、本作の主眼は「主人公シャーロットの、叔父への高まりゆく疑惑と不安(サスペンス)」を描くところにあり、その意味で、「ミステリーオタクの二人」は、その引き立て役である「能天気な奴ら」として描写されているのである。

だが、そんなヒッチコックだったからこそ、少なくとも私にとっては、本作は完全に「期待はずれ」な作品になってしまってもいたのだ。

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【※ 本作の結末に触れますので、未鑑賞の方はご注意ください。ただし、本作のラストは、まったく「意外性のないもの」であって、わざわざ隠す価値もないという事実だけは、ここであらかじめ指摘しておこう】

(映画スチールで、本編中には無いシーン。右は、物語ラストでシャーロットと結ばれる若い刑事)

本作の何が「期待はずれ」だったのか。
それは、端的に「結末(オチ)」である。

ここまで紹介してきたとおり、本作の特徴は「高まりゆく(大真面目な)サスペンス性」にある。
そのため、「憧れていた叔父さんは、じつは殺人鬼なのではないか?」という「疑惑と不安」を煽るための「状況証拠」が小出しにされていくし、後半では、チャーリー叔父さん自身が、ほとんどその疑惑を認めたも同然の言葉まで漏らす。

しかし、だからこそ私としては、かえって「このどう見ても(チャーリー叔父に)不利な描写を、どのようにひっくり返して見せるのか」と、一一つい、そう期待してしまったのだ。

ところが、本作にはそうした「どんでん返し」は無く、「憧れの叔父さん」は、やっぱりそのまま「殺人鬼」だったのであり、さらには、最後は「知りすぎた」シャーロットを、列車から突き落とし、事故死に見せかけて殺害しようとまでするのだが、かえって自分が列車から転落して死んでしまうという、いささか「間抜け」なラストになっているのである。

(シャーロットに「証拠の指輪」を握られ、町を去ると約束して列車に乗ったチャーリー叔父だが…)

最初に「乙女の憧れ」を描き、それが徐々に裏切られていくシャーロットの「疑惑と不安、失望と悲しみ」が、大真面目に描かれているというのが、本作の「売り」なのだが、しかしそんなものは、たぶん誰も、ヒッチコックには期待していない。

先にも描いたとおり、ヒッチコックの「心理描写」というのは、あくまでも「サスペンスを高める」という点に限定されており、決して「深い人間心理」の描写にあるわけではない。
だから、それに類したことを「大真面目」にやられたところで、「いつもとは違う」とは思っても、特に感心するほどのものではないし、むしろ、その「驚くほどの曲のない結末」にこそ、本格ミステリマニアである私は、「ヒッチコックに、そんなことを期待した私が馬鹿だった」と反省させられたのである。

したがってこうした難点は、「本作」が「古い作品だから」ということではなく、あくまでも「ヒッチコックだから」という問題なのだ。

ヒッチコックは、「サスペンス性」を盛り上げるためなら、かなり「無理筋の捻り」を加えることも辞さないのだが、「捻りそのものの面白さ(意外性)」で楽しせよう、などということは考えられない人であり、そういう作品は撮れないし、撮る気もなかったのである。

以上に指摘した点は、慣用句のごとく「サスペンス映画の巨匠」と呼ばれるヒッチコックを考える上で、押さえておくべき、基本的な「作家的特性」なのではないだろうか。



(2024年5月29日)

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