数値化・効率化を目指さない、自分の「ちょうどいい」を探す旅
人口たった1600人の村にある、古民家は「彼岸の図書館」、名前はルチャ・リブロ。
本「手づくりのアジール」を書き、奈良県東吉野村で私設図書館「ルチャ・リブロ」を運営する青木真兵さんは図書館についてそう語る。
精神的に疲弊し仕事を休まざるを得なくなった私にプレゼントされたこの本。
手元に届いてから前作の「彼岸の図書館」と合わせて2日で読み終えてしまうほどに今の私が必要としていたものだった。
それは一時的に身体をだまして元気にするドリンクでもなければ、
「言う通りにすればすべて上手くいく」と謳うビジネス書でもなかった。
自分の中で理想とする「豊かな生活」の要素はいくつかあるが、どれかを取るとどれかを犠牲にしないといけない、そんな対立になっていた。「手づくりのアジール」はそんな私の暮らし方を心地良く言語化し、「対立する要素は両立が可能である」ことを教えてくれた。
本の文章を引用しながら、自分の暮らしと照らし合わせながら考えを深めていきたい。
生きていくためにお金を稼ぐ仕事だけが「働く」ことを示していない。つまり私が対価としてお金をもらうことを目的とせずただただ楽しくて行うボランティアも「働く」の一つになるのだ。
そういえば退職後に実家で野菜作りを始めた祖父が「さぁ、今日も働こうかなあ」と楽しそうに声を出し畑へと出ていっていたのを覚えている。
育てた野菜は販売することなく家族で食べたりご近所さんにおすそわけするのが基本で、そこにお金は関わっていなかったがこれも立派な働き方なのだ。
「軸はあるけど、自信がない」状態
自分がちょうどいいと感じる直感を大事にしつつ、他者が大切にしていることにも意識を向かせる、そんな好奇心を持つことで周りが羨ましくなりすぎない程度に新しい情報や考え方が手に入る。
SNSで食べ物、ファッション、雑貨の流行が発信され、それを手に入れるのが当たり前のように感じさせる。自分が欲しいから手に入れているようでも、その基準は他者にありそこに「自分」はいないのではないか。いくら流行っているとはいえピンとこないブラウス、行列に並ぼうと思えないタピオカなど「自分はおかしいのか」と悩んでいた自分が「自分の直感を信じて大丈夫」と肯定された気がした。
体調を崩して仕事をお休みしているが、日常生活は問題なく送ることができるのでここぞとばかりに読書に費やす時間が増えた。
読書の目的はその時々によって仕事のための勉強や大学の課題のためだったり異なるが、最近は「罪悪感のない暇つぶし」であり、「自分のことを教えてくれる手段」であると感じる。
私は性格上学習欲が強く、強制された仕事や勉強以外の時間も自分なりに「生産的」に過ごさないと気がすまなかったりする。読書は新しい視点や考え方、文章の書き方そのものまでどんな本を読もうと自分の身になるので、時間を無駄にしたと感じずにすきなだけ時間をかけることができる。また、いくつか本を読んで中身やタイトルを見返すと必ず共通点があり、無意識に選んだ本から自分がいま何を知りたいのかを教えてくれる。読書は自分にとって鏡であり先生である。
「価値基準を自分に」はまだまだ難しい。
常に一番を目指し良い成績を残すことが良しとされる社会であるかつ自己肯定感の低い私にはいわゆる「当たり前の価値観」から外れることがどこか自分で自分にバツをつけたような気になってしまう。
・SNSを見ない(利用時間を制限する)
・読書をして自分との対話の時間を作る
・ほしいものや憧れの生活に対して「それってそもそもどうして?」と自分に語りかける
社会の基準を完全に手放すのは私にはまだ難しい。
もっとお金を稼いでみたい。
海外と日本を行き来する生活をしてみたい。
自分のお店を開きたい。
森の中に一軒家を建てたい。
ルチャ・リブロにお邪魔した際、青木青海子さんと「ちょうどいい の基準は変わっていく。人生をかけて見つけていけばいい。」とお話した。
私にはその言葉がすごくしっくりきた。ずっと同じ「ちょうどいい」はないし、常に変化するのに合わせてまた探しに出かければいい。
そして一人一人の ちょうどいい が認め尊重され合う、そんな世界を作りたい