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宗教学_Nekeutsch2024後半10_20241129_クルアーン読解_第十章「ユーヌス」
引き続きクルアーン日本語読解です。今回は第十スーラ〔章〕「ユーヌス」です。ユーヌスはユダヤ教で言えば(旧約聖書/タナックでは)「ヨナ書」(預言者ヨナの書)にあたります。このユダヤ教の議論をなぞる形で(ここでもユダヤ教の神髄をイスラームの側からなぞるような形で)話が進んでいきます。このためやはり、(前出の)YouVersionなどで「聖書(旧約部分にある、ヨナ書)」の内容を追う必要があります。[念のためにヨナ書冒頭の URL を記すと ↓] https://www.bible.com/ja/bible/1819/JON.1.%25E6%2596%25B0%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E8%25A8%25B3 になるはずです。今回の内容は、複雑(ユダヤ教の解釈もイスラームの方の解釈も)な話に思われます…。
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宗教学_Nekeutsch2024後半8_20241115_クルアーン読解_第三章「イムラーン家」
宗教学_Nekeutsch2024後半8_20241115_クルアーン読解_第三章「イムラーン家」 お話の導入として、COP29とアゼルバイジャン(バクー油田)の歴史、またアルメニア、ロシア、ペルシアなどの複雑な関係を手がかりにして、歴史と政治と宗教のつながりを考える機会に。—— クルアーン日本語読解の第三スーラ〔章〕「イムラーン家」が主たる題材。この章はキリスト教徒に対して、自分たちの信仰の本義を思い起こさせる、という趣旨で、前章と同じく、逸脱した者たちを信仰の本義に連れ戻すという趣旨といえます。イムラーン家は、イエスの母マリアの親のファミリーで、これら一族が敬虔な信仰者であることを説くことが本章の主題でしょう。イエス、マリアなどの関係を理解するために、まずは、この話題の元となるオリジナルの(新約聖書の)「ルカ福音書」を説明するひつようがあります。これ(ルカ)との対比でクルアーンの説くところを考えるのが大事です。〜 今回も前出の「クルアーン日本語読解」が必要ですが、これに加えて、キリスト教福音「ルカ福音書」を参照するため、(前に掲げた)「YouVersion」での箇所(サイト)を次に掲示(↓)しておきます。 https://www.bible.com/ja/bible/1819/LUK.1.%25E6%2596%25B0%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E8%25A8%25B3
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宗教学_Nekeutsch2024後半6_20241018_クルアーン読解「雌牛」の章
前回までの下地づくりで、イスラームとクルアーンに関する誤解が解除されたものと考えました。今回から、虚心にクルアーン(日本語読解)を読む回にしたいです〜。最初の「開端」の章と、内容上の第一章といえそうな「第二スーラ〔章〕〈雌牛〉」を読んでいきます。文を見ないと話が追えませんので、以前に挙げた 東京ジャーミイ のサイト(そこの出版物のタグ)から、「クルアーン 日本語読解」を探して参照してもらうのがよいでしょう(そこに載っている各章の先頭の解説と、章末尾の注も理解の助けになります)。[↓ 出版物のページ] https://tokyocamii.org/publications/ この章(雌牛)は、自分たち(ムスリム)に先行して啓示が下った民としてのユダヤ人に呼びかけるものです。趣旨としては、ユダヤに下った啓示をユダヤ人自身が忘れて(内容を改竄してそこから離反して)いないか、と諭して本道に導き戻す、というようなことです。アッラーは「神」と読む方が理解が容易になり、それがユダヤの神と同じものであることがわかります。また「ムスリム(世に言う イスラ〜ム教徒)」は、ユダヤ人も含んだ「神に帰依するもの」を指すと考えるのがよいでしょう。「ムスリムでない者」は、神を下に見て、神を人間の欲望の道具にしてしまうもの、神よりも自分を優先するもの、と考えるとすっきりするかもです。いずれにしても、虚心に読むと、イスラームが排他的でも独善的でも闘争的でもなく謙虚な教えであることがわかるはずです。そもそもムハンマドの最初の時代では、少数(自分の家族)から クルアーンの教えを説くことから始めたのであり、力をもってすれば容易に滅ぼされる立場にあったため、全ては(武力でなく)言葉による説得だけをもって世に広まったものです。どうしても、その後の拡大したイスラーム勢力を念頭においてしまうため、力ずくの布教のようなイメージ(虚像)が先行しそうでしょうが、まずは、教典そのものを地道に読みたいところです。—— とはいえ、何を言っているか(そもそも「雌牛」とは?)わかりにくいこともあるので、解説が必要で、それを当講義で行っています。しばしお付き合いを…。
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宗教学_Nekeutsch2024後半1_20240920_15世紀&16世紀
ルネサンス/オスマン帝国/バチカンの変様/宗教改革/スペイン・ポルトガルの1492年。デマルカシオン。地球をめぐる覇権。身体の意味、藝術の意味の変位。 この講義では ミネルヴァ書房『よくわかる宗教学』を「横書きのテクスト」として指摘します(あまり必要ないテクストです)。それと異なり、以下のサイトは、内容を追うためにも、参照が必要です。よろしくお願いします。 聖書(旧約/タナックと新約/福音書など)これを読むことになります。簡便なところでは、アプリ&サイトとして「YouVersion」を推奨します。日本聖書協会の新共同訳聖書。サイト先頭の「創世記」のURLを掲示します(別の書〔福音書など〕に飛ぶためのボタンなどは護身で探してみてください)。 https://www.bible.com/ja/bible/1819/GEN.1.%25E6%2596%25B0%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E8%25A8%25B3 トルコ文化センター(東京、代々木上原、東京ジャーミイ)の運営するサイトの出版物、のページを掲げます。ここに収録のものから「クルアーン 日本語読解」これが大事になります。すなわち、日本語で無料でいわゆるコーランを読むことができます。講義では、この同所に掲げられている、「イスラーム 正しい理解のために」「イスラーム Q&A」への参照を指示することになります。出版物のトップページURLを次に掲げます。 https://tokyocamii.org/publications/ 第一回講義では「デマルカシオン」という事項(スペイン語)を話の発端においています。これに関しても、wikiなどでこの語(デマルカシオン)で検索すると詳しい説明がありますので、参照するのがよいと思われます。 ではよろしくです
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哲学史_Nekeutsch2024後半9
ジョージ・バークリーの思想。デカルトがsubiectum を物(被造物)として捉え、obiectumを観念(想念/反映)とした件を再論。ホッブズあたりから英国経験論は サブジェクトを「人間的主体」として扱うことを開始〜。緩い人間主観(有限性)と 行き過ぎた人間主観(絶対性無限性)との対比。バークリーは、人間の観念の受動性をもとに人間の認識の有限性を語る…のか。人間における受動性が、神の能動性を指し示す、などという話です。〜 esse percipi 「存在するとは知覚されていることである」、これは真理論として(トマス、デカルト、スピノザに対抗して)語られている…? 物と心 実在と観念とが一つに落ち合う場所としての「経験」という帰着点。難しめかも…。