理解はすべて<翻訳>である、ということ。
安西洋之さんの、『「あらゆる概念は誤解を必ず伴う」ーこの認識がどれだけ共有されているか?』という記事を、楽しく拝読しました。
ここで安西さんが述べられていることは、たとえばかつて鈴木孝夫さんが『ことばと文化』(岩波新書)の中で
と書かれていたことや、外山滋比古さんが『異本論』(ちくま文庫)の中で
と書かれていたことによく似ていると思います。
ところが、日本ではこの部分について、公教育でも私教育でも、あまりきちんと教えられていないような気がしています。大人が重要視していないから、子どもも重要だとは思わない。その連鎖だと思うのです。
例えば文書ソフトの『ワード』だって、西洋なら「類義語検索」が重宝されるのに、日本語ではその機能が消されていて、代わりに「表記ゆれチェック」が重宝されています。この現象も、多角的な視点からのパラフレーズを重んじる西洋と、画一性を重んじる日本との違いを浮き彫りにしている気がして、ある意味<象徴的>だなあと思っています。
また、『Thesaurus』の翻訳語は、『類義語辞典』にしても『シソーラス』にしても、英語とちがって「宝物」というイメージは微塵もありません。
音読みインストールの<カタカナ語>だろうと、訓読みインストールの<漢語>だろうと、そこは変わりないのですよね。
あえていうなら、少し前に流行った「語彙力」という言葉がこれに近かったような気がしますが、それも短いブームで終わってしまいました。
わたしは<語源>という切り口でそこを追いかけているわけですが……
何の役に立つのかと言われると悩ましくて、倍速でたくさん単語を覚えられるとか、そういうことを打ち出してみようかと思ったんですが、それも違う気がして手が止まりました。
わたしは、この違いがわかる<aha!体験>こそが楽しい学びだと思っているのです。ところが、塾をやっている友人にも、昇進基準をクリアするためにTOEICを受ける友人にも、「なんの役に立つのか」と一笑に付されました。
自分では価値があると思っていることを、通していくのは難しいですね。
それでも悪あがきしながら、何とか道を模索しているわけなのですが……。
これは大岡信さんが<古典作品>について語っている場面なのですが、これを<イデア>や<真善美>や<語源>に置き換えても、やはり同じことが言えるのではないかと思うのです。まだまだ希望はある、ということでもありますよね。
日々是精進、無知の知。
いろいろまわり道もしながら、わたしはわたしなりに頑張ってみようと思います。
感謝。明日もイイ日に。
◆参考図書
はじめの2冊は1970年代に、最後の1冊は1980年代に書かれたもの。
本はタイムマシン。
これらのたいせつな遺産を、しっかりと受け継いでいきたいと思います。
◆最終更新
2021年11月23日(火) 11:51 PM
※記事は、ときどき推敲します。一期一会をお楽しみいただければ幸いです。