展覧会レポ:サントリー美術館「大名茶人 織田有楽斎」
【約3,700文字、写真約15枚】
サントリー美術館で開催されている「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」を鑑賞しました。その感想を書きます。
結論から言うと、1)満足度は「普通」、2)来場者に何を伝えたかったのか、はっきりしづらい、3)織田有楽斎がもともと好きな人や、桃山〜江戸時代の日本美術が好きな人にはおすすめです。
▼21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「もじ イメージ Graphic 展」
▶︎訪問のきっかけ
私の親族のお墓があるお寺は、織田有楽斎と縁があります。お墓参りに行くと、毎回「織田有楽斎」の名前を見るため、親近感はあったものの、有楽斎は「お茶のすごい人」くらいしか認識がありませんでした。
そのため、サントリー美術館で「織田有楽斎展」があると知った時「これは行かねば!」と思いました。このお寺には、有楽斎の分骨が納められているほか、有楽斎の四男である織田長政のお墓などがあります(笑い飯の哲夫さんの檀家でもあるそうです)。
なお、展覧会でこのお寺については1mmも触れられていませんでした😅
また、1)約10年間、サントリー美術館に行っていなかったこと、2)隈研吾さんの著書『自然な建築』を読んで、サントリー美術館について言及されていたため、久しぶりに行きたいと思いました。
▶︎「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」感想
織田長益(1547〜1621、75歳没)(以下、有楽斎)は、織田信秀の弟・十一男であり、織田信長の13歳下の弟にあたります。
本能寺の変(1582年)で信長、信忠は自刃しました。一方で、有楽斎は二条城御所で敵襲にあった後、逃げ延びたことから「逃げの有楽」とネガティブに呼ばれるようになりました。それが書かれた当時の本も展示されていたことは記憶に残りました。
その後、1590年ごろから自らを「有楽」と名乗ります。有楽斎は、織田・豊臣・徳川の三天下人に仕えた武将を経て、茶人となりました。後に、建仁寺(京都)の正伝院を再興、そこにあった茶室「如庵」は国宝に指定されています。有楽斎の茶道は、現代の規範にもなっているそうです。
側近の人の詳細な日記などが残っているから、当時の歴史を紐解くことができます。どういうモチベーションで記録したのか分かりませんが感謝です。
会場には、書状(手紙)が掛け軸になって多く展示されていました。書状を書いた本人は、400年後に美術館で公開されると思ってなかったでしょう。手紙の内容は「茶会を○○で実施から来て!」「先日は遥々、茶会に来てくれてありがとう!」など、メールなら1行で済むような内容が大半でした。そして、日本語のはずなのに全然読めませんでした…。
展示されている書状や遺言状には、毛筆でツメツメにたくさんの文字が書いてありました。当時は当然、ワープロもないため、字をきれいに書く技術がある人は、とても重宝されたんだな、と感じました。
本能寺の変の後、有楽斎は、豊臣秀吉から大阪府摂津市内に知行地をもらいます。その後、関ヶ原では石田三成に勝ったことで、徳川家康から奈良山辺郡に知行地をもらいました。
隠棲後、数奇者としての有楽斎の美意識が存分に発揮されたらしいです。展示室には、16〜17世紀に有楽斎が使ったとされる茶杓、茶入、花生などが展示されていました。「これらを当時、有楽斎が実際に使っていたんだなぁ」と思いを馳せるとロマンを感じました。
五島美術館に行った際、茶道の道具について若干の知識を得たため、理解に役立ちました。
階段を降りた先に、狩野山楽《蓮鷺図襖》がありました。ふと、襖絵は日本独特だな、と思いました。襖は、ドアにも、仕切りにも、壁にもなるし、持ち運びができます。その襖をキャンバスにしちゃう発想が面白いです。
展覧会全体は「ふーん」という印象でした。私は、もともと織田有楽斎について、ほぼ何も知りませんでした。そのため、この展覧会には大きな期待もしていませんでした。
この展覧会のキュレーションから「これはもって帰ってもらいたい!」というメッセージは感じられませんでした。ただ有楽斎に関係がありそうなものを並べただけで、史実的・博物館的な印象が強かったです。「これ、有楽斎と関係あんのかな?」と思ったものもチラホラ。
「何か良い企画はないかな…、おや、織田有楽斎が亡くなって400年目らしい。ちょうど良いから、それをベースに展覧会をつくってみよう」という「400年目」がベースにあったのではないでしょうか。本来は、伝えたいことがあった上で「400年目」であれば良いと思います。しかし、手段と目的が逆になっている気がしました。
サントリー美術館曰く、この展覧会は「織田有楽斎という人物を、いま一度総合的に捉えなおそうと構成」したものです。「総合的」という言葉は、曖昧模糊としているため、私はあまり好きではありません。
例えば、百貨店で販売するブランドを多くもつ企業を「総合アパレル」と呼びます。要は「総合=これといった強みがない」と言うこと。
この展覧会は、織田有楽斎マニアや、桃山〜江戸時代の日本美術が好きな人にとっては楽しめると思います。一方で、軽い気持ちで来た人にとっては、印象に残りづらい展覧会だと思いました。
記憶に残ったのは、最初のパネルに説明があった「逃げの有楽」の由来、武将から茶人になった経緯(+それを記した書物)でしょうか。wikiで調べれば、分かるレベルの知識でした。
織田有楽斎は「茶道を確立」と記載がありました。しかし、「なぜ」有楽斎が当時そこまで評価されるに至ったのか記載がありませんでした。その点がクリアになると良いと思いました。数多くの著名人と書状のやりとりがあったことは、評価された結果に過ぎません。
来場者は、六本木という土地柄もあり、外国人観光客(欧米、中国など)が多かったです。しかし、大きなパネルは英語併記でしたが、作品のキャプションは日本語のみ。簡単でもいいから、英語表記があると親切だと思いました。日本人でもキャプションを読んでやっと理解できる内容が多いため、外国人の方は、この展覧会は珍紛漢紛だったと思います。
また、有楽斎の経歴などの説明で地名が多く出てくるため、地図を使った説明もあると、より理解が増したと思いました。
作品の撮影は全て不可でした。1つくらいはフォトスポットを置いた方が、展覧会の宣伝にもなるし、来場者の満足も上がると思います。入り口に置いてあるパネルは大き過ぎるため、パネルの前に人が立って写真を撮っても、何の展覧会か分かりづらいと思いました。
▶︎まとめ
いかがだったでしょうか?織田有楽斎について「総合的」に理解するには良い機会だと思います。織田有楽斎がもともと好きな人、桃山〜江戸時代の日本美術が好きな人にはおすすめです。一方で、織田有楽斎に関連するものを数多く置いた感が強く、美術館側はこの展覧会で何を伝えたかったのか?なぜ、織田有楽斎は茶道を確立できたのか?など、疑問も多かったです。