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言葉は創るものではなく、“磨く”もの

小学生の頃、作文が大嫌いだった。
あれから10年ほど経った今、こうして週に1本くらいのペースで文章を書くような人間になるとは予想もしていなかった。

通信の作文講座を泣きながら受けた記憶が蘇るたび、最後まで付き合ってくれた母には感謝しかない。なんで、あそこまで泣いてやったんでしょうねぇ…

その甲斐あってか、中学校では文章を褒めてもらえることが何度かあったし、高校では部活でラジオドラマの脚本を作るまでになった。
そして大学生になって、こうしてnoteを書いている。

本を読むのは苦手だった。内容にのめりこむ小説は指で数えられるほどしかなかった。たぶん小学生のときに一番読んだのは「朝日ジュニア学習年鑑」だと思う。というか、あの本を読むことは読書と呼べるんだろうか。

文字を目で追うことすら苦手に感じていた私が、文章を“書く”ようになるきっかけと呼べる本が1冊だけある。
レーモン・クノーの『文体練習』(2012年、水声社)である。

ひとつの小話を99通りの文体で表現する、というこの本の内容に、当時小学校高学年だった私は、どハマりした。
確かに全部ストーリーは同じだけど、文体が変わるだけでこんなに印象が変わるのか!文体、面白ぇ!とワクワクした感覚は今でも覚えている。

初めて読んだ衝撃から10年近く経って、ずっと本棚に置かれていた『文体練習』に目が止まったのは、大学の授業が影響していると思う。哲学は、世界の見方を少し広げてくれたり、ガラッと変えたりしてくれる。日常生活、特にnoteに深く結びつく「言葉」を主題にした哲学的議論は数多く存在する。

大学の授業で印象に残っているのは、大森荘蔵の「ことだま論」(『物と心』収録)である。ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にも関連していそうなこの論文を読んで、「言葉は磨くものだなぁ」と、ふと思ったのだ。

大森荘蔵の主張、いわゆる“大森哲学”は、西洋的な二元論(身体と精神、善と悪などの二項対立)を否定して、一元論的な考えが展開される。大森本人は思っていないだろうが、「東洋的」な考えの持ち主だと私は思う。

大森の「ことだま論」を簡潔にまとめると、「言葉のさまざまな働きによって、その相貌が立ち現れる」という考えだ。言葉に「意味」は存在せず、多くの働きを持っているに過ぎないと主張している。時間や場所、状況に応じて、その言葉の働きは変化しているという話だった。

言葉を創る、ということは、どんな言葉でも形容できない働きを認識することとも言えよう。毎年「新語・流行語大賞」は発表されるし、国語辞典の改訂によって削除される語句、追加される語句はいくつかある。

でも、「言葉は創られる」のだろうか。既存の言葉を多く習得し、それらの働きをたくさん知ることのほうが言語の理解に適っているような気がする。

多くの言葉を習得することで、その時にふさわしい相貌を浮かばせる能力が育っていく。その意味で「言葉は磨くもの」という考えに至ったのだった。

一人称の代名詞を例に挙げても、英語なら「I」フランス語なら「Je」しかないところ、日本語なら「私」「僕」「俺」など、きりがない。それぞれ受け取る印象の違いを理解して使い分けるという日々の選択は「言葉を磨く」作業ではないだろうか。

ちなみに『文体練習』の最初は、こう書かれている。

S線のバスの車内、ラッシュ時のこと。二十六歳ばかりの男、リボンのかわりに編みひもを巻いたソフト帽、まるで引き伸ばされたような長すぎる首。人びとが降りる。くだんの男は隣の乗客と口喧嘩。人を通すたびにぶつかってくると言って咎める。哀れっぽいが、険のある口調。男は空いた座席をみつけるとあわててそちらに向かう。
それから二時間後、サン=ラザール駅の前のローマ広場で再びこの男をみかける。一緒にいる友人から「コートにボタンをもう一つつけさせた方がいい」と言われている。その場所(襟ぐり)を示し、理由を説明する。

レーモン・クノー『文体練習』(松島征 他 訳) (レーモン・クノー・コレクション7)
1 覚え書 より

このストーリーの磨き方はたくさんある。
気になった方は、ぜひ読んでみてほしい。

余談だが、アンサイクロペディアの「文体練習」も面白かった。これもある種の「磨かれた言葉」と言えるような気がする。

磨かれた言葉は、それぞれの世界を見せてくれる。時間や場所、話し手の違い、その言葉を受け取る自分自身の変化などによって、その印象は常に変化し続けていく。
言葉を磨くって、終わりがないからなんだか楽しい。

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成瀬 凌圓 / Nullxe Ryoen
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