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大陸合理論・近代哲学スタート!

今回は、ヨーロッパ大陸側で起こった合理論。デカルト(仏)、スピノザ(蘭)、ライプニッツ(独)を中心に、紹介していきます。

イングランドの経験論では真理を探究する方法として、帰納法という、個々の事例から一般法則へ導く論法を使いました。
これに対して、大陸の合理論は「演繹法」。真理の探究推論の方法として、前提となる命題を置き、経験に頼らず理論的な展開によって一定の結論を得ようとする論法を使いました。


デカルトが演繹法のインスピレーションを得たのは、「数学」からでした。数学はそれ自体複雑で、多くの命題の羅列によって成り立っており、難しく見えますが、一行一行は実に明解になっています。

デカルトが気付いたことは、このように、一行一行を明確にすれば、いずれ最終的な答え(真理)にたどり着けると考えたのです。
その手法のエッセンスが、『方法序説』に記載されています。

①疑いようのない明晰かつ判明なものだけを受け入れる 
②問題を部分に分ける 
③単純なものから複雑なものに進む順序を守る 
④見落としがないように見直す。

この①「疑いようのない明晰かつ判断」というものが、一番重要で、ここを間違えて取り扱ってしまいますと、最終的な結論も間違ってしまいます。つまり、間違った情報によって、導かれる答えが間違ってしまうということです。

このため、デカルトが打ち出した方法が『方法的懐疑』です。

方法的懐疑とは、もう何も確実であるといえるものはないと思えるところまで続ける積極的な疑いです。

例えば、楽器の音色や果物の色といった知覚や、頭痛や腹痛がするといった内的感覚は、それがどんなにありありとリアルに感じられるとしても、夢のなかの出来事であるかもしれず、夢は目が覚めてはじめて夢だと気づくものであるから、現実だと思われる感覚はすべて不確実。
“2+3=5”のような知識は確実だと思えるが、しかし、ひょっとしたら神がわれわれをあざむき、誤った結論へ導いているかもしれないという可能性もあって不確実。

このようにして疑っていくと、あらゆるものは不確実だったり疑いの余地が残ったりするため、確実なものは1つも残らないように思えます。
しかし、ここでデカルトは、たった1つ、確実なものを見出しました。
それは、“すべては夢かもしれない” “神にあざむかれているのかもしれない” と疑い、さらに、そうやって疑う自分自身を疑う “私自身” です。

つまり、デカルトは、私が疑っている=考えているということは疑いようがなく、そのように考えている私が存在することは絶対確実だという結論にいたったのです。
こうして、「我思う、ゆえに我あり」にたどり着くわけです。

デカルトは、「心身二元論」というのを打ち出しています。 

客観的な物体と、主観的な精神の二つです。客観的な物体は、意識される側、つまり誰かに意識して損座している物体(自分の身体も含まれる)。主観的な精神は、意識する側、つまり自分が意識していること(自分の頭の中で考えていること)。


はい、ここから神域を含めた「向こう側」の話に入ってきます。ゆっくり行きましょう。はぐれないで。一緒についてきてください。

デカルトは、客観的な物体よりも、主観的な精神に注目しました。ゆえに「我思う、ゆえに我あり」に思考の中でたどり着くわけですね。
彼は、イエズス会の学校(神学校)を出ており、信仰心の深い人です。基本、神ありきです。ですので、こういう論理展開になります。

「人間という物体は疑いえる不完全な存在である(死ぬし、病気になったり、動かなくなったり)」 

⇒ 「人間は神を完全なものと考えている(昔からそう伝わっている)」 

⇒ 「不完全な人間は完全な神のことを考えられないはず(神とは?完全とは何かわからない)」 

⇒ 「ならば神は人間と関係なくどこかに存在している(よくわからないけど、いることは知っている)」 

⇒ 「神は人間をつくったのだから、神や神が創った世界を人間が認識できるようにしているはず (その神は、不完全な人間のために様々なことをしてくれている。神様ありがとう)」 

つまり、神がいるので、人間は生きていられる。成長できるという結論。

どうして、こういう考えになったというと、彼が住んでいたオランダ(アムステルダム)は、当時世界最大の貿易地で、世界のあらゆる場所から、様々な物品があつまり、金がうごめいていました。そんなモノに執着した人々をなげき、精神に重要性を神に関連付けて、説いたと思われます。

さて、この二元論をひきつぎ、自分の結論を見出した人が、バールーフ・デ・スピノザ(オランダ:1632年ー1677年)です。

彼の主張は、「一元論」。

シンプルに言えば、この世界は、そのまま神。

物体も精神も全部、神による神のまま。

神=自然

彼は、ユダヤ人。かなり信仰深い。こうなりますよね。

ちなみに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、唯一神(神はひとつ)であり、同じ神を信仰しています(ユダヤ人はそう思っていないが)。神からの言葉の伝承者が違い、解釈が違うだけ。こう言ったら、怒られそうかな。
これだけ、彼は信仰が厚いのだけど、当のユダヤ教会からは破門を受けます。「神を我々やこの世界と同じにするな!超越的な存在だ!」というわけです。

さてさて、デカルトの「二元論」と、スピノザの「一元論」をふまえ、考えを発展させたのが、ゴットフリート・ライプニッツ(ドイツ:1646年ー1716年)です。

基本、哲学というのは、先達者の真理に対して、賛成(一部否定)か、否定(全面反対)から入り、自分の真理にたどり着きます。そういう意味では、議論の出発点をつくったデカルトは凄いと思います。

彼は、事物の究極的要素は、神が創った非物質的で精神的な極小実体の「モナド(単子)」であるとしました。神は、あらかじめ、無数のモナドとモナドの間に調和的秩序が存在するよう定めたと唱えました。無数と無数が関連しているので、「多元論」と言われています。こういう考えに至った背景は、当時、哲学・心理学・数学・自然科学など様々な学問が発達し、この世界が単純な構成でないと認識され始めたからと言われています。

こうして、フランス・オランダ・ドイツと連なるヨーロッパ大陸では、イングランド(経験論)とは違う、合理論を展開していったわけです。
どちらの理論も、アプローチこそ違え、自然を理解し支配するために必要な知識を求めるという点では同じであり、ルネサンス・宗教改革・近代科学を経て、近代哲学がスタートしました。

イングランド経験論についてはこちらで ↓

私が、デカルトが好きな理由として、「心の哲学」の出発点をつくった人というのもあります。

心の哲学とは、心の働き、とくに心と身体との間の関係を研究する学問です。この研究の流れは、コンピュータサイエンスや、AI(人工知能)そして、ロボティクスに引き継がれています。

また、最近のホットなニュースでは、あのイーロン・マスクが行っている脳とコンピュータをつなぐ「ブレイン・マシン・インターフェイス」でしょう。また、私自身が一番関心のある「消費者行動心理」も心の哲学と大きく関連しています。

心(精神)と身体は別物だ、というのは正しくあれ、間違いであれ、多くの人に考えさせるきっかけとなっており、自分自身「問い」を立て、自身の真理を見出しています。

しかし、だれもが納得できる真理に誰もたどり着いていない。こころって何?こころの働きは、身体にどういう影響を与えるのか?同じ条件・状況なら、同じ結果になるのか?わからないだらけである。

古代ギリシアの哲学における大きな二つの問い
「世界はなんでできているのか」
「人間は、この世界で何をしようとしているのか」

答えがでないことを、なんとか答えを見出そうとする「哲学」

独自のロジックで、真理を見出す。

このロジック(解決方法)が、ビジネスにすごく生かせます。

不確実な世界と言われる中、間違いかもしれないが答えを出す、その時の役立つのが先達者の解決手法。

哲学はなんか難しい。彼ら彼女らなりの考えを延々に説いているから。

でも、シンプルなロジックだけ取り出すと、手法として使える。

帰納法、演繹法、問答法、弁証法、構想法などなど。
このあとも、カント、ヘーゲル、マルクス、フッサールなど紹介して、シンプルなロジックを紹介していきたいと思います。

次回は、カント! 絵を使って、わかりやすく紹介いたします。

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