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【読書コラム】会話が成り立たないのは成り立たせようとする気がないからなのだ - 『話が通じない相手と話をする方法 - 哲学者が教える不可能を可能にする対話術』ピーター・ボゴジアン, ジェームズ・リンゼイ(著)、藤井翔太(監修)

 奈良美智さんのXで面白そうな本が紹介されていた。

 早速、買って、読んでみた。期待通り、すこぶる面白い本だった。300頁ほどの本文を一気に読んでしまった。

 内容はタイトルそのまま、話が通じない相手と話をする方法が理論的に記されているのだが、初心者から達人に至るまでのプロセスが提示されたり、作者の実体験が例示されたり、とにかくわかりやすさに富んでいる。専門書のような雰囲気なのに、まるで自己啓発本みたいなフォーマットを採用している。

 実はここにこの本の仕掛けがある。というのも、作者であるピーター・ボゴジアンとジェームズ・リンゼイは学者でありながら、一癖も二癖もある人物。具体的には社会学の学術誌にあえてデタラメな論文を投稿し、採用されたら審査基準がガバガバであると指摘するという「不満研究事件」を引き起こした首謀者コンビなのだ。

 しかも、単に学問の世界で暴れているだけでなく、二人ともSNSで過激な発言を投稿し、アカウントが何度もバンされている。いわば、この人たちこそ、「話が通じない相手」側の代表格。

 そんなわけで、訳者も解説で注意を促しているけれど、そんな人たちの本だから、どこまで信用していいのかはけっこう怪しい。なんなら、書いてある通りに実感する人たちをバカにしようとしていてもおかしくない。そのためにわざわざ自己啓発本のパロディをしているのかも。

 ただ、それにしては内容がしっかりしているので悩ましい。

 特に考え方というのはその人の生き方を反映したものであり、それを変えることは自分の人生を否定することにつながり、理屈うんぬんを超えて、受け入れ難い苦難であると示したくだりは素晴らしかった。

こうしたわけで、人が自分の信じていることを改めることがめったにない理由は、自分の考えが誤りになる条件を想像できないからではないことが分かる。むしろその理由は、考えを改めてしまうと、自身の(道徳的)アイデンティティが傷つけられかねないという点にある。別の言い方をしよう。他人の考えを変えさせるというのは知性や認識論の問題にとどまらず、道徳[生き方]の問題にもなってくるということだ。(これこそが、議論に事実を持ち込んでも相手の考えを改めさせるのにほとんど役に立たないもう一つの理由である。)人は反証可能性に関する質問に真剣に応じることを拒むことで、自分の考えを守るという道徳的に正しい選択をしたと感じることができる。

『話が通じない相手と話をする方法 - 哲学者が教える不可能を可能にする対話術』196頁

 我々はつい、正しい考え方があり、間違った考え方は治してあげなくてはと思ってしまう。でも、本当のところ、考え方に正しさなんて存在しないのだ。

 というのも、みんな、自分の価値観において、正しくあろうとしているだけ。

 例えば、なんらかの宗教を信じているなら、その教えに従うことは道徳的に正しいわけで、考え方が正しいか否かは本質的にどうでもいい。

 だから、まず、我々は互いの道徳的価値観を理解するところから始めなければ、会話を成り立たせることなどできやしないのだ。

 では、道徳的価値観とはなんなのか。基盤となるもの主に六つに分類される。

●ケア/危害
●公正/欺瞞
●忠誠/背信
●権威/転覆
●神聖/堕落
●自由/抑圧

<省略>

これらの道徳基盤は、私たちが根底に持っている価値への感受性のようなものだと考えてみるとよいだろう。保守は六つの基盤すべてに反応する傾向があり、特に忠誠、権威、神聖といった項目を大事にする一方で、ケアについてはそれほど重視しない。リベラルはケアと公正、そして自由にもっとも大きな関心を寄せるが、他よ三つの基盤についてはほとんど顧みない(もしくはそれらを著しく異なった形で提示する)。リバタリアンは、自由についての特定の側面を最重要視するが、他の五つの基盤についてはそれほど重要だとは考えない。

『話が通じない相手と話をする方法 - 哲学者が教える不可能を可能にする対話術』301-302頁

 政治的な立場が違う者同士、永遠に分かり合えないのはまさにこの基盤となる価値観が異なっているから。命がなにより大切と信じている人たちは経済がなにより大切と信じている人たちと合意に至ることはない。同じ世界に生きていても、見えているものがあまりに違い過ぎるのだ。

 そして、この価値観のズレは物事の認識の仕方にも影響を与える。

あなたの基盤となる価値と会話のパートナーのそれとが一致しないときには、多大な困難が生じる。問題の捉え方、最も重要だと感じる事柄、それに言葉遣いですら、常に各人の基盤となっている価値観の影響を受けるものだ。その結果として、あなたと会話パートナーの会話はすれちがってしまっているのである。実のところはお互いに賛成していたとしてもそうなるのだ。

『話が通じない相手と話をする方法 - 哲学者が教える不可能を可能にする対話術』303頁

 このことを踏まえると、なるほど、話が通じない相手に我々がストレスを感じる理由が明らかになってくる。

 伝統という言葉がある。これからなにを連想するだろうか。保守派の人はそれを守るべきと考えるかもしれない。リベラルなら打ち破る対象として捉えるかも。そこに荘厳さや感動を覚える者もいれば、呪いやしがらみをイメージし、不快感でいっぱいになる可能性も。

 辞書で引けば、簡単に意味が確認できる単語であっても、人々が実際にそれを感受するときには無限のバリエーションが存在する。

 ひょっとすると、言葉は我々が思っているほど、コミュニケーション・ツールとして優れてなどいないらしい。当然、言葉でやりとりをする限り、異なる価値観の間に広がる大きな溝はいつまで経っても埋まらない。

 だから、大事な話は面と向かってすべきなのだ。経験的にそうなのだろうと知ってはいるけど、言葉の不確かさから身振りや声色など、非言語コミュニケーションの重要性が揺るぎないものになっていく。

 そして、逆説的に、言葉でしかやりとりができないSNSで論争を繰り広げることの不毛さがはっきりとしてくるのだ。

 特にX(旧Twitter)はやば過ぎる。ただでさえ、伝えたいことを伝えるのに適していない言葉を使うメディアな上に、文字数制限まで設けられているのだから、そんなつもりじゃなかったのにが次から次へと発生していく。しかも、リプや引用リツイートの形で誰もが好き勝手に論争へ新規参入できるわけだから、収拾がつかなくなるのは明々白々。

 従って、SNSで気に食わないことがあっても、SNS上で解決するのは不可能であると即座に諦めよう。自分の正当性を主張するより、アカウントからログアウトし、怒りが収まるまでレジャーを楽しむことがなによりも大切だ。

 そもそも、人間、価値観をそう簡単には変えられない。身近な人に説得されても、つい、反発してしまうのが常である。ましてや、その相手がネット上の見ず知らずな他人だったら、言うまでもないだろう。

 価値観の変更は精神的な自殺に等しい。これまでの自分を殺すことで、新しい自分に生まれ変わる必要があるから、他人の正論で覚悟が決まるはずはない。自分の中で時間をかけて、あれやこれやと悩みに悩み、そうするしかないとなし崩し的に踏ん切りをつけるのが普通。究極、自分の問題である。

 もちろん、他人の言葉が心に刺さることはある。記憶に残り、突き動かすパワーになったりもする。ただ、それはその言葉自体に力があるというよりは、本人がそう活用しようと解釈しているだけの話。実際はかなり恣意的に選ばれている。

 我々は他人について、シンパシーを寄せて考えようとしてしまう。自分がやられて嫌なことは他人にもしてはいけない。子どもの頃、そんな風に習った経験は誰にでもあるのではないか。でも、価値観はそれぞれ違っている以上、わたしの嫌なことを他の人も嫌がる根拠はどこにもない。

 では、どうすればいいのか。これからはエンパシーを用いることが重要になると言われている。

 シンパシーとエンパシー。似ているけれど、なにが違うのか。これについて、ブレディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に秀逸な説明が載っている。学校の期末試験に「エンパシーとは何か」という問題が出たという息子に、なんて答えたのか尋ねたシーンのやりとりである。

「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすればempathyは「共感」「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』92頁

 わたしの立場から他人の気持ちを考えるシンパシーではわからないことが、他人の立場で他人の気持ちを考えるエンパシーだと見えてくる。いや、正確には、他人の気持ちなんて、本当の意味ではわからないということがわかると言った方が適切か。

 シンパシーは本人にその意図があるか否かにかかわらず、特性上、ナルシシズムに陥ることを避けられない。他人のことを考えているようで、実際、自分のことを考えているだけだから。

 長年、そのことは問題視されてこなかった。なんなら、外交において、シンパシーに基づくナルシシズム思考は有効であると見做されて、「戦略的ナルシシズム」という用語も存在し、アメリカを初め、ほとんどの国がこれを盲信してきた。

 民主主義の立場から中国を考えれば、経済的に成長した後、民主主義を求める声が高まるはずと当たり前のように思ってきた。ロシアもサウジアラビアも北朝鮮も、いまは独裁的にやるしかないけど、いずれ民主主義を求めるに決まっている。だって、民主主義は最高だもの、と。

 だから、アメリカはアメリカ的な価値観に基づいて、世界は平和に向かっていると本気で考えてきた。ところが、蓋を開けてみれば、民主主義を最高と思っている国は少数で戦争を辞さない指導者もたくさんいた。

 このことをいち早く指摘し、他国のあり方をシンパシーで予想する「戦略的ナルシシズム」を脱却するよう強く訴え続けた人がいた。トランプ政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官を歴任したハーバート・マクマスターだ。

 マクマスターはトランプ政権の良心として、ロシアと中国がアメリカとはまったく異なる価値観で動いていると主張してきた。任期が終わると同時に『戦場としての世界 自由世界を守るための闘い』という本を出版したのだが、どうせトランプについての暴露本だろうと予想した大方の期待を裏切り、リアリズムに裏打ちされた世界情勢の大胆な予想を発表した。

 驚くべきことに2020年の時点でロシアによるウクライナ侵攻を広義に言い当てていた。どうやったのか。「戦略的エンパシー」を用いたのである。

どのような将来がこの先、待ち受けているのかを推定するにあたっては、過去がいかにして現在を作り出したのかを理解することが最初の糸口になる。そして政策と戦略は、ライバルも敵もこれから起こる出来事に影響を及ぼすのだという認識に基づく必要がある。「もう一方」がいかなる反応を示すのか、それは部分的に彼らの歴史解釈が左右する。国務長官および国家安全保障大臣の大統領補佐官の経験者であるヘンリー・キッシンジャーは次のように観察していた。すべての国家は「自国には歴史的な立場があると考えている。(中略)現実に起きたことは、起きると思われていたことほどには重要ではない場合がままある」。また2500年以上も前に中国の軍事理論家の孫子は「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」と記した。戦略的ナルシシズムを克服するために我々は自らの歴史観と同じくらいに競争相手の歴史観を理解しようと努めなければならない。

『戦場としての世界 自由世界を守るための闘い』42-43頁

 アメリカがロシアだったらどうするかという視点を捨て去って、ロシアがロシアとしてなにを望んでいるのか、マクマスターは徹底的に考え抜いた。すると、ロシアがソ連時代の影響力を取り戻そうとしていることは一目瞭然だったという。

 ご存知の通り、アメリカとロシアは話の通じない相手同士だ。たぶん、どんなに話し合いを重ねたとして、お互い、会話する気がない以上、絶対に会話は成立しない。無論、説得なんてもってのほか。

 ただ、どうして話が通じないのか、両者の価値観がどう異なっているのか分析し、相手の立場になって物事を眺め直すエンパシーは可能である。 

 ならば、話が通じない相手に絶望する必要は別にない。なぜ、わたしたちは理解し合えないのかについて、理解し合うことはできるのだから。

 さて、それでいったいなんになるのか。疑問に思う気持ちはわかる。ただ、分断の時代において、どんな形であれつながりが得られることは蜘蛛の糸が如き希望である。

 この糸を登りみんなで天国にたどり着けるのか、途中で切れてみんなで地獄に落ちてしまうか。今回の結末はきっと、我々の振る舞いに委ねられている。




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