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【読書コラム】「論理的」の意味する内容って、実は国によって全然違った! 学校で読書感想文の書き方を教えない理由もそれに関係していた! - 『論理的思考とは何か』渡邉雅子(著)

「論理的に考えろ!」「ロジカルシンキングが大切!」

 そんな風に言うとき、我々は「論理的」にひとつの形があるものだと信じ切っている。でも、どうやら、それは幻想らしいのだ。

 思考表現法の比較研究で知られる渡邉雅子先生。その新刊『論理的思考とは何か』はその秘密を解き明かし、いま話題となっている。端的に言うなら、「論理的」の基準は文化によって変わるというのだ。

 この本の中で4つの国を例に挙げ、それぞれの作文教育から「論理的」を4種類の領域を提示していた。経済的なアメリカ、政治的なフランス、法技術的なイラン、社会的な日本なのだけど、これが全然異なっている上、互いに相容れないものがあるので面白かった。

 まず、アメリカは主張と理由を述べ、あとはそれを捕捉する情報だけを載せていくシンプルな構造。自分の主張に都合の悪い話はあえてカットすることがよしとされている。いわゆる5段落パラグラフと呼ばれるもので、1970年代に教育が大衆化する中、受験の採点を効率的に行うため普及したというから成り立ちもアメリカっぽい。

 対して、フランスの大学受験バカロレアで書かなきゃいけないディセルタシオンは弁証法をよしとする。問いに一般的な見方と反論を並べ、より次元の高い新たな問いを導き出すのが基本となっている。これはフランス革命後の国民教育で普及したスタイルなので、憲法や法律も含めてすべてを疑うべきという思想が根底に流れている。なんなら自分すら疑うべきで、je(私)を主語にしてはいけないとされている。アメリカのI think 〜 because 〜という書き方とは対極をなす。

 とはいえ、アメリカもフランスも新しい主張を探すという点では共通しているかもしれない。そういう意味ではイランのエンシャーという文章のあり方にはビックリしてしまうことだろう。なにせ、エンシャーはコーランなど規範となる聖典に記された言葉しか使ってはいけないのだから。結論はことわざや著名な詩の一節、神への感謝や称賛で締めることが推奨されている。自分の意見なんてものは邪魔でしかないのだ。

 従って、自分の意見だけを述べる日本の感想文をイランの人が読んだら、なにを書いているの? と首を傾げるに違いない。いや、イランに限らず、アメリカやフランスの文化圏から見ても、日本の感想文は目的が不明に感じられるらしい。

 日本の作文は共感に主眼が置かれ、ある経験を通して人間的に成長したことを示す道徳物語を書くことがよいとされている。読書感想文ならその本を読んで「わたしも主人公のように困った人を助けたいと思います」で締めればいいし、修学旅行の感想文なら「友だちと長い時間を過ごして一生の思い出になりました」とまとめれば間違いない。

 この背景にあるのは明治の教育者・芦田恵之助が普及させた「綴方」というカリキュラムにあるらしい。これは子どもたちに自由作文を書かせて、先生が一言コメントを添えるというもの。採点はしない。書き方も教えない。子どもが子どもらしく、素直な気持ちを表現することを目指している。他の国は作文教育で子どもに大人の思考法を身につけさせようとしているので、日本は最初から逆方向を向いている。

 戦後、アメリカの教育システムが入ってきたけれど、先生たちは「綴方」を残す形で抵抗したという。ただ、格差が広がる中で自由に書かせると都合の悪い内容がテーマになったしまうかもしれない。そこである程度の制限を設けなきゃいけなくなり、課題図書や行事について感想を書かせるという現代まで続く感想文スタイルが形成されたらしい。

(ちなみに読書感想文の書き方について、わたしなりにまとめたことがあるのだけど、今回、振り返ってみると「綴方」の思想をめちゃくちゃ反映していたので驚いた。知らなかったけど、ちゃんと学校教育を通して身につけることができていたっぽい)

 さて、このように「論理的」がひとつの価値観ではなく、育ってきた環境によって姿形を変えるものだとわかったところで、わたしたちになにができるのだろう。日本のような社会領域の論理的思想ではお金を稼げないから、いますぐアメリカのような経済領域の論理的思考を学校で教えるべきと主張すればいいのか? もちろん、そんなわけはない。どの領域の論理的思考も長い歴史の中で必要だったから積み上げられてきた。どれが一番いいなんて簡単には決められない。

 例えば、アメリカ式だと物事を最短距離で決めることはできるけれど、不安要素を隠すため、間違うリスクを減らすことはできない。日常レベルの判断をするときにはいいけど、国際的な問題などを扱うとなったら、フランス式に反論も含めてあらゆる可能性を検討しなくてはいけない。また、ルールに従うことを優先すべき場面ならイラン式が使えるし、議論による分断を防ぐなら日本式の調和が欠かせない。

 してみれば、我々はこれらの論理的スタイルを武器として持つことが重要。TPOに合わせて使い分ければいいのである。

 そもそもこの本が「論理的」を4つの領域に分類し、各特徴を分析した理由はそこにある。単に違いがあると言いたいのではなく、蓄積されてきた知見を扱いやすい形で提示し、「論理的」というマジックワードによって誤魔化されてきた本当の意味での「論理的」を明らかにしようとしている。

 渡邉雅子先生がこのような研究を始めたきっかけはアメリカ留学時代、自分が「論理的」と思っていたものが通用しなかった経験にあるという。

 筆者が論理的であること、そして論理的思考が「ひとつ」ではないことに気づいたのは、アメリカの大学に留学して、エッセイと呼ばれる小論文を提出した時だった。「評点不可能」と赤ペンで突き返された時の衝撃は今でも忘れられない。それ以上に衝撃的だったのは、どんなに丁寧に書き直しても同じコメントが繰り返された一方で、いったんアメリカ式エッセイの構造を知って書き直すと、評価が三段跳びで良くなったことである。英語が上達したわけでも知識が格段に増えたわけでもない。しかしアメリカ式のエッセイの型で書くと、それまで自分が重要だと思っていたことが必要なくなり、エッセイのポイントである主張すらも変わってくる。すると必然的に結論も変わってくるという不思議を体験した。それは論文の構造に導かれた論理と思考法の日米の違いという、まさに「見えない文化衝突」の体験だった。

渡邉雅子 『論理的思考とは何か』ⅱ頁より

 文章のスタイルを変えると意見まで変わってしまう。そんなはずないと思ってしまうが、実際、外国語を勉強すると似たようなことを感じる人は多いだろう。結局のところ、我々は考えたことを言葉にしているのではなく、言葉にできるものを考えたことと言っているだけなのだから。

 このあたりは拙記事で何度か取り上げている構成主義的情動理論という考え方で説明がつく。わたしたちは感情を言葉にしているようだけど、実は、先に言葉があるというのだ。

 悲しいから悲しいのではなく、悲しみを表す言葉があるから悲しくなる。嬉しいから嬉しいのではなく、喜びを表す言葉があるから嬉しくなるのだ。
 例えば、「ウザい」とか「キモい」とか、なんとなく使っているけれど、具体的になにがどう「ウザい」のか、どういう状態が「キモい」のか説明するのは不可能に近い。でも、その言葉を使うとき、たしかにそういう感覚を持っているのは間違いない。
 なぜ、そんなことが起きるのか。ざっくり理屈をまとめれば、脳が基本的に面倒くさがりで常に思考のショートカットを狙っているからなんだとか。
 ものを考えるってカロリーを大きく消費する行為であり、飽食の時代だと忘れてしまいがちだけど、元来、エネルギー摂取は大変なことだった。そのため、脳は常に節約をしようと頑張っている。そうなると似たような状況に対して、毎回、一から頭を使うのは効率が悪い。
 このとき、言葉がめちゃくちゃ役立つ。嫌なことがあったらぜんぶ「悲しい」と処理すればすごく捗る。反論しなきゃ損する場面では「怒り」対応しておけばうまくいく。いいことがあったら「喜び」を使えば得をする。みたいな感じで、文字通りラベリングから感情が生まれたという仮定が構成主義的情動理論なはず。たぶん。

拙記事より

 この理論では単語レベルの話が中心だけど、その後ろ側に「論理的」のスタイルが関係しているとしてもおかしくはない。もっと直接的に言うなら、頭のよさというものは個人の能力ではなく、所属している社会で求められている思考法を使えるかどうかの相性を意味しているのかもしれない。

 ときたま「地頭」という言葉が使われる。教育で身につく賢さではなく、その人が本来持っている能力として使われる概念である。すっかり手垢のついてしまった「天才」の新しい言い方なのだろう。

 子どもたちと話していると「あいつは地頭がいい」とか、「俺は地頭が悪い」とか、けっこう耳にする。そして、勉強は意味がないという結論に至るのだけど、本当にそうなのだろうか?

 実は、ズレているのは思考法。評価されないのはスタイルの不一致に原因があるかもしれない。新しい作文スタイルを使えるようになれば、これまでと違う思考法で物事を表現できるようになるわけで、そうすればきっと評価も変わってくる。

 だいたい評価というのは特定の基準によってなされるものであり、その根拠となる「能力」もまた評価する人がいてはじめて成り立つものである。従って、「能力」は絶対的なものとして存在しているわけではないと認知科学者の鈴木宏昭先生は『私たちはどう学んでいるのか ー 創発から見る認知の変化』で主張していた。

 このような本を読むにつれて、わたしたちという存在は想像しているよりも相対的なものであるとつくづく気づかされる。人間の良し悪しは単独だと決まらないというか、比較なくして優秀も劣等もありはしないのだ。

 そう考えると他者と関わることでしか、人間には優劣もなにもないと言える。なのに、どうして、そんな曖昧なものに我々はこうも一喜一憂しているのだろう?

 新しい思考法を手に入れるメリットはそこにある。いま抱えている悩みがたちまちどうでもよくなってしまう可能性があるのだから。

 こういう発見が読書する喜びなんだと思う。




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