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摂食障がいの克服296【心のしんどさからのイレギュラーな行動】

 お仕事を終えて帰宅しました。
 
 以前のお話になるのですが、とある日あり得ない出来事が私に降りかかり、息子に泣いて謝った日のことを書いたことがあります。息子は号泣する私に、『泣かんでいい。お母さんが一番辛いやろ』そう言って、肩をトントン、いえ、ぎゅってしてくれたのです。この後ずっと(摂食障がいではない)不調(頭がガンガンしている)が続くことになりもう数年です。然しながら私は仕事に穴を空けなかった。働くことが責任だと思った。もう書類(つまり履歴書や職歴書)を書く元気もない。

 日々どうしても涙が溢れるし、摂食障がいもまだ完全によくなっていない。その仕事には資格も必要でしたが、もう意地ですというか生きる信念だった。満点も取ったし、いくつか資格も取りました。一方で心が追い詰められて追い詰められて、朝起きて(5時前)家事をある程度して、仕事行って、(今と同じで)翌日の準備は完璧にしないと退社できないのと、日中にエネルギー使い果たして下手をしたら帰宅する元気がない。けれど帰宅すると家事が待っている。普通のお母さんになれない。追い詰められた。

 金曜、土曜、日曜。先方のスケジュールが1日に何度か変わった日曜の朝、自転車ごと車にはねられました。
 『終わった』そう思ったものです。

 追い詰められすぎて実家とも疎遠になっていたので、救急車で運ばれても”迎えにきて”と連絡をする相手がいません。

 私が当時唯一望んだこと、『いつかゆっくりしたい』だった。 
 もう一言でいうと、『いつか許されたい』もう十分罰は受けたと思った。

 この交通事故の直後ではなかった。上司も休むことを促さなかったので、翌日から何事もなかったかのように仕事をしたし、営業職であったので、片時も手を抜かなかった。けれど急落してしまった。無理が効かなくなった。そして、休職。

 この仕事以前にもずっと苦しかった私は(転職歴も多くまた、労働条件が過酷”すぎる”ものも多かった)老後を夢見たのです。いつか仕事をしなくて済む日が来るなら、その日だけを望んで生きていこうと思った。本気で生きていること=体と心の不調に”耐える”ことだと信じていた。息子のがんばりを観に行くことすら諦めて。

 休職をしたころには、それでも暫くは働かなくても生きていけるほどには、貯蓄がありました。今まで無理はしても全くお金を遣うことには恐怖を感じる性質で、知らずに貯まったということもある。

 行政からの助けなどもほぼなしに、自力で。

 それでも将来への不安が消えなかった。言い換えると、働かなくても生きていける未来があればほしかった。

 そして、大きなお金を失ったんです。
 追い詰められた体や心がもしも、この先いい未来があるなら、お金を払っても、もう楽になれるなら、何でもする、そんな心境だった。

 そういうわけで、大きく失った後再び絶望し、という気持ちになるまで時間が掛かりました。すごい心が鈍っていたのでしょう。あり得ない金額を失った。例えて言うなら、今の仕事の時給で働いてる世界とはもう規模が違うというか。もう失ったので戻りませんが。

 お金は生きていく上で愛情に匹敵するほどに大切だと思います。
 しかし、時と場合によっては判断力もなかなか難しい。それほどに精神は追い詰められるものである。

 そう私は経験者として思います。
 
 失ったことをカウントしても、戻らない。

 失った結果、私は息子と住んでいた家から離れました。息子が世帯的に自立したこともあり、暮らしをミニマムにしました。

 メルカリで売ればよかったけど、もう決別っていうほどに、家中の家具や持参物ほぼ98%ぐらいでしょうか、手放しました。

 そしてワンルームに暮らし始めました。

 そのままそこに暮らすつもりだった。
 とあるトラブルがあり、今はまた違う1ルームに住んでいるのです。
 譲れない条件などもあるのでこの広い地域でヒットした2件にどちらも住む機会に恵まれました。どちらも共通しているのは家具が全部ついているということ。従って、私の所有しているものとは、息子が描いてくれた絵(結構多い笑)、息子の写真、後は少しの洋服、コーヒーメーカー、炊飯器、3段カラーボックス、衣装ケース(プラスチック3段)、後パソコンとかです。

 冷蔵庫も洗濯機も持っていない。借りているだけ。

 なお、ひとつ前の1ルームよりは今のほうが暮らしはいい。けれど、これは誰かの強制的な”善意”によってなされた行為であり(以前”ハチャメチャ探偵長”で投稿したのはそれがあるからでもあります)、この引っ越し自体ある程度のお金を必要としていたということにおいて、非常に”ありがた迷惑”、そう思います。もう人なんて信頼したくない。そんなことばかり。

 けれど、結果的に。そうやってお金を失って、ミニマムに暮らし始めて、トラブルに遭って、今の家にいることによって、私はこの自宅から5分で通える今の仕事を見つけた、という今には行きついている、そう思うことで今も生きている。

 仕事が始まる5分前に家を出て、仕事が終われば5分後に帰宅。
 嬉しいポイントではあります。

 何が言いたいかと無理やり考えると、失った重さも、現在の何かに繋がることもあるかもしれないって、信じている…私の場合はそうです。

 大きなお金があれば無論働かなくてもいい、数年。でも数年後働かなくてはいけない際に、今働いているスキルが活かせる未来も無論あるだろうし。自分自身に対する投資(と思うことでしか)今の不幸を乗り切られないから、今も時給のこの労働に感謝する、今だけそうでしか、今を生きられないなって考えるしか術がない現状です。

 1級の勉強ですが、4000単語の、2120語まで来ました。仕事前に200単語したので。

 失った大きさは、私自身で言えばそれこそすごいのですが、一言でいうと”命があるからがんばろう”ってことになる。

 命があるから、しんどい未来もある。
 でも、私は今は体重が増えるとか摂食でしんどくでも、やっぱり生きるし。自分自身の人生もだけど、周りに繋がりがあるから感謝とか、その方の未来が知りたいとかも要因になっています。その方がどういう未来で、明日どう生きて、この後どういう文章を書かれて、とかもわくわくする。
  

 もう十分にしんどかった。車にはねられることなんて何でもなかった。
 
 けれど一つの”目に見える”この人は傷ついたというエビデンスにもなり、私は傷ついた人となり。

 ちゃんと傷ついてよかったって言われたら、あり得ない馬鹿なイレギュラーな行動も許されているみたいで、安心してしまう。

 それでも。

 もう傷つきたくない。

 *ハットリくんは今日も帰宅後観たので、画像に使わせて頂きます。ハットリくん、ありがとうございます。
 


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