そこに教養がある
はじめに
突然ですが、「教養がある」とはどのようなことを指すと思いますか?おそらく、共通して出てくるのは物知りであることということだと思います。教養のある人は物知りですが、残念ながら、物知りでも教養のない人はいます。では、教養があるとはどのようなことなのでしょうか?おそらくですが、物知りなうえに古典や芸術や芸能に詳しい人だと思います。芸能と言っても、芸能人のゴシップネタではなく、クラシックバレエや能のような伝統芸能のことです。つまり、博識なだけでなく、伝統的なことについても詳しい人のことだと思います。なぜ、このような結論に至るのかを書いていきたいと思います。
教養の有無と頭の良し悪しは別
高学歴な人でも教養のない人は多いです。そして、その傾向は年々強まっていると言えます。この要因は合理主義的教育と吸収力の低下だと思います。合理主義的教育とは簡単に言えば、受験勉強のために行う教育のことで至上命題が大学入学であり、考えるのではなくひたすら覚えるというものです。その過程で、いるものといらないものが取捨選択されます。私立の文系を受ける人であれば、理数科目を受験しなくてもいいので、その分野の知識がなくとも大学に入ることができます。そして、副教科である音楽や家庭科などはさらにその傾向が強くなります。受験のための勉強は大学に入るうえで重要ですが、大学へ入る意義であったり、大学合格を至上命題にしている意味であったりを考える必要があります。しかし、そういったことは前例主義的な経路依存や社会的に当たり前という風潮からそういったことを考えることはあまりありません。
現在の教育は受験のために勉強するのであり、受験でいらないものはさっさと切り捨てるというのが一般的です。高校までで教養の素地を養うことはできますが、その機会を学校や本人が自ら奪っています。ペーパーテストはできるが、世間知らずであったり、常識的なことを知らなかったりします。そういう人たちが口にするのは、「受験でいらなかった」や「何の役にも立たない」といったようなことです。いるいらないの判断をするのは本人の自由ですが、後で恥をかくのは自分です。ある程度の地位になって教養がないことがわかってしまうとまともな人が離れていくこともあります。
教養があるから、社会で役に立つのかと言われるかもしれません。その考え方自体が間違っています。それこそ、合理主義的教育から生まれる発想です。教養は役に立つ知識でないことが多いです。例えば、絵画の技法や特徴を知っているからといって、給料が倍になることはありません。クラシック音楽が詳しいからといって、生活が豊かになることはありません。教養がすぐに生活に直結することは、まずありません。しかし、教養を付けることの重要性は人としての深みを出すことができます。若いうちに深みはあまりいらないと思われるかもしれませんが、実は若いうちから付けている方がいいです。
その理由は非常に簡単で、そこそこの社会的身分の人と対等になれるからです。そこそこの社会的身分の人とは会社経営者のような人たちです。回り回って、社会的に自分を利してくれます。そこそこの社会的身分の人はある程度の教養は持ち合わせています。持ち合わせていないような人はその階級でほかの人から相手にされることはありません。結果的に教養を身に付けることは自分の社会的身分を高めてくれることにもなります。会社の経営陣に教養がなければ、会社のレベルや未来もだいたい予想はつきます。無教養な経営者のいる会社はまともな会社でないことが多いです。
教養は消化に時間がかかる
会社経営者のような人とつながりたいから、古典や芸術や芸能の勉強をしようとして、いろいろ調べても簡単に理解するのは難しいです。それを理解するために、基礎的な知識が必要だからです。教養は応用的な知識であり、素地のない人からすれば不要な知識と思われてしまうようなものです。古典や芸術や芸能の知識が付け焼刃であるかどうかは簡単にわかります。話している内容が明らかにどこかから引っ張ってきたようなものであるからです。端的に言うと、まとめサイトで書いていたことを丸暗記にしているのとほぼ同じです。
学校で古文や漢文を学びますが、その時点でその内容を理解するのは難しいです。だから不要と思われやすいのですが、、、なんとなくわかり始めるのは20代前半です。それがよくわかるようになるのは30代以降だと思います。芸術はもっと奥が深く、どこまでいってもゴールはありません。むしろ、ゴールがどこなのかを自分で決めないと抜け出せなくなることもあります。ピカソの絵がなぜ素晴らしいのかを、絵を見ただけではわかりません。どう考えても下手な絵にしか見えませんが、ピカソの時代にカメラが流行りだし、写実的に描いてもカメラにかなわないと思い、カメラでは表現できない絵を描くようになったと言われています。こういった知識がないと下手な絵だと決めつけてしまいます。
絵画1枚にしろ、その作者が生きた時代の背景、その絵を描くに至った背景を知らないと絵の良さはわかりません。恥ずかしながら僕も絵に関する知識はありませんが、最低限の歴史的な知識を持つようにはしています。歴史的背景がわかれば、その絵の良さもわかります。ルーブル美術館のモナリザを見て、思った以上に小さいという感想で終わらせるのは非常にもったいないです。モナリザは謎の多い絵画の1つなので、ダビンチは誰をイメージしながら描いたのかであったり、どこにどんな細工が施されているかであったりを考えながら見るとより面白さが増すはずです。ただ、モナリザは至近距離で見ることができないので、遠目で見ることになってしまいますが。
古典であれば、その作品を読む、芸術であれば、その作品を鑑賞するといったようなことをしても、教養の素地があるかないかで受け止め方が変わります。素地があれば、面白く感じるでしょうし、素地がなければ退屈に思います。これまで無駄な知識と思われていたものを無駄と切り捨てると教養を身に付けることは難しくなります。無教養な人として生きていくのも自由ですが、人として中途半端に終わってしまう可能性があります。教養はないよりあった方が人生を楽しむことができます。無理に身に付けようとすると非常に大変ですが、趣味の範囲で教養を身に付けるので十分だと思います。そのための素地は今まで学校で教わったことで事足ります。古典の教科書を読み返したり、現代語訳された古典を読んだり、歴史の資料集を見たりすると新しい発見があるかもしれません。そこが教養を身に付ける第一歩になるはずです。
最後に
学校でいらないと思われていた知識が教養になるとはとんだ皮肉です。教養がなくても生きていくことはできますが、あるに越したことはありませんし、ある一定以上の社会的身分の人たちになると教養を身に付けています。会社経営者が偉人の伝記や作品を好むのは、経営者としての哲学を身に付けると同時にどういった歴史上の偉人はどのようにして難局を乗り越えてきたかを知ることができるからです。教養は単なる知識ではなく、過去の記録であり、先人の知恵で場合もあり、その記録から何を読み取るかでもあります。日本史や世界史の勉強の延長ではありますが、単なる暗記ではなくそこから何を読み取るかこそ、教養です。教養=知識ではなく、教養は知恵であり、歴史の産物です。金欲しさのために会社を起こしたり、独立したりする人が失敗する原因の1つにそういった教養を持ち合わせずに、会社として難ありと思われ、人が離れていったことも考えられます。経営者に経営哲学がなければ、会社経営がうまく成り立つはずありません。ある程度の地位や年齢になり、教養がなければ、同じような人たちから相手にされにくくなると思います。最短ルートでと思うかもしれませんが、少し寄り道をするほうが、実はいい結果が待っているかもしれません。教養の有無がやがて人間性にも表れてきます。
普段の僕の言動に知性も教養も感じられないとは思いますが(笑)