見出し画像

#5 宙に浮いて登校した日〜小学4年生 【7年間の不登校から大学院へ


・完全に不登校になった小学3年生の前回記事はこちらから




宙に浮いて登校した日

学校に行けなくなってすぐの頃は、両親も先生も何とか私を学校に復帰させようと必死に対応策を考えてくれた。

ただそんな対応にも私は毎朝泣き叫び、その度に両親も困った顔で「どうして行けないの、学校のなにがそんなに嫌なの」と聞くばかり。それに私は明確に答えることもできずに「行きたくない!」の一点張り。



来る日も来る日も朝から繰り広げられるそんな騒ぎに、母もどうしたら良いのか分からないと塞ぎ込んで部屋の一点を見つめたまま過ごす日があった。

父はたまに怒りながらも冷静に、ときには車で私を連れ出してドライブがてら車内でどうして学校に行きたくないのか、どうしてママを困らせるのかと話をする機会を作ってくれて、一緒に解決策を模索してくれた。

「別に、ママとパパを困らせたいわけじゃない」と車の窓から外を見ながら答えるものの、不登校になった私は結果的に両親に迷惑と心配をかけてしまっていた。




不登校になって変化した家族の様子

 私が学校に行かなくなってから毎朝毎晩、私と母との喧嘩のような言い合いが繰り広げられていた。兄はそんな言い合いから逃れるように、学校から帰ってきてもすぐに自分の部屋に行って閉じこもるようになった。私のせいで家のなかの雰囲気がそんなふうになってしまった。


私が寝静まってからも下の部屋から聞こえてくる両親の言い合いや激しい言葉、そして陽気で明るい兄の姿もあまり家のなかで見かけることがなくなってしまった。全ては自分のせいだった。



両親からしても、学校の先生から見ても、なぜ私が学校に行きたくないのか、その原因は一体何なのかが明確に分からず、困りきっていたようだった。


私自身もなぜ学校に行きたくないのかと問われても、狭い教室にギュウギュウ詰めにされて、うるさいなかで過ごすのが嫌だとか、自分勝手な行動をする子たちが周りにいることが耐えられない、といったように漠然とした理由しか伝えられなかった。


何度も両親と先生と話し合いをしたけれど、理解への橋は一向にかからなかった。

どれだけ話し合いを続けても、私が学校に行きたくない理由も、行けない原因も分からないまま。


そんななか「早い段階でもう一度学校に来ないと、もう来れなくなる」という校長先生の話から、私が知らないところである計画が実行されることになっていた。




とある登校計画

 その計画とは、母が車で校門まで私を連れて行き、校門で待機している計3名の先生に私を強制的に引き渡す、というものだった。


学校に行かなくなってから間もないある朝、母が学校に「今から連れて行きますので」と電話をしていた。「え?」と思ったのも束の間、その直後に母が私のリュックとクツを持ち、私はそのまま車に乗せられて学校まで連れて行かれた。車内で私は泣き叫んだけれど、車には鍵がかけられていて助手席のドアは開かなかった。



校門に到着すると先生が3人ぐらい待ち構えていて、私はそのまま車内から引きずり出された。先生たち3人に担がれて抱えられるような形で、自分の体が宙に浮いた状態のまま保健室へと連れて行かれた。


私は終始泣き叫んで抵抗していたけれど、大人3人に抱えられていてはどうすることもできなかった。授業中の時間に私が廊下で泣き叫んで通過したため、この様子を終始クラスメイトたちが見ていた。とても恥ずかしい思いをしてしまった。



結局、その計画は失敗に終わった。連れて行かれた先の保健室でも泣きっぱなしですぐに帰宅することになったのだ。これがあってからは「逆に、学校から逃亡する恐れがある」という校長先生の苦言があり、無理に登校させられることはなくなった。

その日から3年生が終わるまで、学校の敷地内に足を踏み入れることなく終わった。



「早い段階でどうにか学校に復帰させなければ」という気持ちのもと、私に対して色んな対応を考えて実行してくれた校長先生も、それを信じて試してくれた両親も、みんなが私のために最善を尽くしてくれていた。

あの作戦は私には逆効果だった。けれど、何も対応せずに放っておくこともできたのに、どうやったら私が学校に行けるようになるかを必死に考えてくれた先生たちと両親。


今から思うと感謝の気持ちでいっぱいのだけれど、当時はそんなことを思える余裕なんてなかった。

学校に行けなくなった小学3年生のあの頃は、本当に朝から晩まで自分の部屋で扉も心も閉ざして過ごし、今から振り返っても冬の雨降りのような冷たく暗い日々だった。


でも何よりも、その暗い日々を強制させてしまった家族、そして周りの人々に本当に迷惑をかけてしまって申し訳なかったという気持ちと、見捨てずにいてくれた感謝の気持ちが残る。

本当にごめんなさい、そしてありがとう。





小学4年生

小学3年生の1学期に完全に不登校になり、さらにあの計画以降は学校に足を踏み入れることもなく、そのまま月日が流れて4年生になった。

4年生になってから変化したことに、担任の先生がしてくれた特別授業がある。

3年生から担任の先生が変わって、今度は物腰が柔らかい先生が担任になった。
この先生が私に理科の特別授業をしてくれたのだ。



ある日「特別に理科の実験の授業をしてあげるから、学校に放課後おいで」と言ってくれて、自然が大好きで理科が一番好きな科目だった私は喜んで行った。



放課後の時間。みんなが校庭で遊ぶ賑やかな声が聞こえてくるなか、私は初めて理科の実験室に。まだ学校に行っていた小学1年生のとき、実験室の前を通るたびに上級学年の場所だぁと思っていた。そこに初めて立ち入ることができた。


さらに実験室には、私一人分の理科の実験セットを先生が用意して待っていてくれて「ちょうどいま、みんなは授業でリトマス紙の実験をしてるんだよ」と、通常の授業とほぼ同じ内容を体験させてくれた。



新品同様で使うことのなかった教科書を開き、表紙に「理科」とネームペンで書いたノートに初めて折れ線を入れて、まっさらな1ページ目に黒板の文字を書き写す。家以外で使うことのなかった鉛筆と消しゴム。


30分ほどの特別授業だったけれど、ほぼリアルタイムでみんなと同じ授業を受けれたことが嬉しかったのを覚えている。


最後には「家にある液体がアルカリ性か酸性かをリトマス紙を使って調べてノートのまとめること」という宿題も出してもらって、その宿題を一生懸命して後日ちゃんと先生に提出した。



とにかくリアルタイムで授業が受けられたことと、宿題を出してもらえたこと、そして久しぶりに学校のなかを歩いて理科室に行けたことなどが実は嬉しかったのだ。



不登校なのに矛盾しているのでは、と思われてしまうかもしれないけれど、私は「圧迫感のある教室」という環境に行けなかっただけであって、友だちと遊ぶことや勉強自体はとても好きだった。

でも相変わらず教室には一度も行けることなく、数回の特別授業と自習の日々を経て小学4年生が終わった。




私の場合、不登校の理由には環境が大きく影響


 私の場合、不登校になったのには環境が大きく関係していたのだと思います。

教室に入ると動悸や吐き気が始まって、この場で吐いたらどうしようなんてことが頭をよぎって、常に水分を持っていないと不安になっていたのをなんとなく覚えています。

また、学校以外でもあまりに大勢の人が行き交う大型ショッピングモールに行くとホトホト疲れて帰ってきていました。さらに、圧迫感のある教室に似た電車や飛行機などの閉鎖的な空間も特に苦手で「次の駅に着くまでに倒れたり、トイレに行きたくなったらどうしよう」なんてことを考えては逃げ出したくなったりしていました。


でも特別授業での理科室のように、自分が落ち着く状況にいるときには一切そんなことは感じず、自然体でとてもリラックスして過ごせていました。


周りには「そんなこと、ハナから思わなければいいじゃん」とか、「考えすぎ」とか「心配しすぎ」なんてことも言われていましたが、そんなことですぐ治ったら苦労しないよ、というのが当時の私の本音でした。


もしも当時にオンライン授業や、もっと少人数で静かで落ち着いた雰囲気の学校などに出会うことができていれば私は学校に行っていたのかも、といま振り返って思います。




勉強への意欲が変化

 小学4年生のときに担任の先生にしてもらった特別授業はほんの数回でしたが、勉強や授業内容への興味がいっそう引き立てられた私は、それから家でも自習を意欲的に行うようになりました。

みんなが学校にいる時間は、家で教科書を読んで問題ワークをやったりノートまとめをするようになり、それ以外にも積極的に読書などをして自分でできる範囲で勉強をしようと努めていました。


ただ、やはり高学年にもなってくると自力で学ぶ限度がきて勉強にもだいぶ遅れが生じ始めるのですが、これについてはまた次回に。


次回は、#6 保健室登校で終わった小学6年生【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。





いいなと思ったら応援しよう!