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#9 学校との接点を作り続けてくれた先生 【7年間の不登校から大学院へ】


 入学式から1ヶ月間、教室に通っていたものの、とあるキッカケでまた2度目の不登校となった経緯を書いた前編はこちらから



はじめに


小学3年生から不登校になり、そのまま小学校を卒業した私。

中学入学というタイミングから「やり直そう」と意気込んで約1ヶ月間 教室に登校していましたが、GW明けに心が限界を迎えてまた学校に行けなくなってしまいました。


小学校でも不登校になり、中学校でも不登校になり、2度も不登校になった自分の最終学歴はもう「中卒」だろうな、将来はどうやって生きていこうかなと当時は半ば諦めた気持ちで過ごしていました。


今回はそんなふうに考えていた中学2年生について書いていきます。




中学2年生

 中学2年生では、1年生の時と担任の先生が変わった。

この先生は特にアクティブで本当に教育熱心で、私自身とても救われた部分が多いにあった。

運動部の顧問だから週末もただでさえ忙しく、自分の家庭も子だくさんで大変そうなのに、仕事以外の時間は本当にあるのだろうかと思うほど、本当によく動き回っている先生だった。


そんな先生が担任に決まった頃の私といえば、小学校で不登校になったときとはまた一段違う心境があった。

それは「学校に行けなくなる」という経験を2度も繰り返したことで、自分はやっぱりダメなんだという気持ちに大きく拍車をかけるような、傷口に傷口を塗り重ねるような感じだった。


中学校に行けていたのに、また不登校に逆戻り。
自分でチャンスを台無しにしてしまったという自責の念が強い分、「また、やってしまった」という気持ちも深く大きくて、どこか投げ出すような気持ちがあった。

「どうせ私は、」みたいな気持ちに近いかも知れない。
どうやっても私には無理なんだ、というような投げ出したような、拗ねたような心境。

勉強面でも、小学校では週2回の特別授業をしてもらっていたのと自習でなんとか学力を保っていたけれど、中学の勉強ではさすがにそれも出来なくなっていた。



2度目の不登校、矛盾した複雑な心の内

 毎日みんなは朝から夕方まで授業を受けて、宿題をして、さらにはそこから塾に通う子もいる。

学校行事や部活動なども含めて、ただ自分の部屋で毎日を過ごす私とは、学力も体力も日に日に差が大きく開いていくのは歴然だった。



学力の話だけではなく、汗水を垂らして部活動に熱中している同級生の姿も眩しかった。顧問に怒られたり、息を切らしながら水を飲んだり、友だちと励まし合うような姿が、そして堂々と表を歩いている制服姿も羨ましかった。

まさに青春のような日々を過ごしている同級生を見ては、自分はどうして同じようにできないのだろうと、学校に行けない理由も、教室に入ると急に体調が悪くなる現象も変わらなかった。

かけがえのない時間や瞬間を、自分はただ過ごすばかりの毎日に、学校に行けていない現実に、罪悪感と焦りが凄まじかった。


教室に行きたくなくて、どうしても行けない。なのに、学校生活を普通に送っている同級生の充実感と楽しそうな友だちとの会話は羨ましい。


学校に通えている子だって楽しいことばかりじゃない、それも分かっている。

お前は学校の苦しい部分だけから逃れて楽しい部分だけを渇望しているんだ、と言われてしまいそうだけれど、でも本当にそんな矛盾した気持ちと感情を抱えながら、自責と自己嫌悪で一杯の日々を過ごしていた。



学校に行けないけれど、学校に行けるようになりたいと、思っていた。

みんなが学校に行っている間も休みの日もどの日も、勉強もできず友だちとも遊べず自己嫌悪で埋まる日々から抜け出したかった。

あの教室に行くという選択肢の他に、なにか別の環境があれば私は不登校ではなかったのかもしれない。あの教室に向かおうものなら、心の底から「嫌だ!」という消せない声がこだましてきて、耐えきれずに走って逃げ出してしまうほど逃避したくなる。


自分でも不可解な感情を、支離滅裂な思考を、私自身もどうにもできなかった。

私自身がどうにもできないものを、他人はもっとどうして良いか分からなかったに違いない。


私は自分のことをただ社会不適合者なのだと、どう考えてもそうとしか思えなかった私は、何をどうしたら良かったのだろう。



「無理しなくて良いから」「頑張らなくていいから」「本当に無理に来なくて良いから」という言葉に安心するときもあったけれど、それを永遠に言われ続けていると、距離を置かれているような、一人でポツンと立たされているような気分になるようなときが正直あった。


救い出してくれるような、ちょっとだけで良いから手を添えて助けてくれるような、そんなキッカケが当時の私は欲しかったのかもしれない。




先生からの声かけ 

 そんな複雑な心境で過ごす私に、担任の先生は「テストだけでも教室に受けに来ないか」「校外学習だけでも参加してみたらどうだろう」「体育祭の見学とかはどう?」と、圧迫感のある教室が苦手だった私の気持ちを汲み取ってか、教室以外で行われる開放的な活動に誘っては、なにかしら学校との接点を作ってくれた。



テストだと決まりきった時間だし、教室はシーンとして落ち着いたなかで自分の実力試しにもなるし、クラスメイトとの接点も少しできる、といったようにいろんな提案をしてくれたのだ。



ただ、私自身「普段行っていないのに、校外学習だけ参加するってどう思われるんだろう」という葛藤があった。
でも少しでも自分をどうにかしたくて、まずは定期テストだけ教室で受けてみることにした。


教室に向かうのはいつだってしんどかったし、恐かった。
でも、取り残されるように孤立し続けて自分を責め続けるのも嫌だった。



テストの点数は当たり前だけれど、散々だった。

テスト範囲も出題元も、主には授業プリントからだったから出来るわけもなかった。でもそうやって低い点数を目の当たりにするたびに、どうにかしゃなくちゃという意識が芽生えた。


そんな少しずつの心境の変化が実はのちに大きく影響することになるだなんて、この時点での私は知る由もなかった。




先生が作り出してくれた学校への接点


 先生の家への帰り道の途中に私の家があったため、週に一回は必ず、そして多い時には週に2回ほど私の家へ立ち寄ってプリントやクラスメイトからの手紙などを手渡してくれた。

たまに家に上がってもらってお茶を飲みながら話をすることもあって、その時にクラスではいまこんなことをしている、学校行事などの話をしてくれた。



そんな話題に対する私の反応を伺いながら、慎重に、でもときには強引に背中を押すように「次の行事に参加してみないか?」と誘ってくれた。

「それはちょっと……」と私が何度断ろうと、学校行事や区切りのタイミングでまた必ず誘って救いの手を差し伸べてくれた。

私が何度その手を振り払っても、変わらず力強く差し出してくれた。


救いの手が差し伸べられる度に、私は不安やプレッシャーといった心の弱い部分が露わになってしまったけれど、変わりたい、という気持ちはいつもあった。


ずっとこのままのわけにはいかない、という気持ちもあった。

教室には行けないけれど、勉強はしたいし、友だちとも遊んでみたい。


このままただ日々を過ごして、ずっと罪悪感に襲われて、何をしようにも付き纏う不登校というレッテルを剥がしたかった。変わりたかった。

10代の日々をただ暗く過ごすんじゃなくて、自分なんかいない方が良かったんじゃないかなんてことまで考えて、過ごす日々が嫌だったから。




「来月の校外学習、現地集合で班行動だし、どう?」


 先生が「来月の校外学習、現地集合で班行動だし、どう?」と声をかけてくれた。

時期はもうすでに中学2年生の2学期になっていた。
中学3年間のちょうど折り返し地点。

参加するには勇気が必要だった。
でもよく見ると班のメンバーも私が学校に行っていたときに仲が良かった子ばかりで、こんなところまで先生の計らいなのかもしれないと思ったら、勇気を出して参加することにした。




いま思うこと

 当時、担任の先生にはただでさえ授業や部活動で忙しく大変ななか、私にまで時間を割いてもらって申し訳ないなとずっと感じていました。

けれど、そんなふうに学校と私の接点を作り続けてくれたことが実は私はとても嬉しかったんだといま振り返って思います。


家族以外に、自分を気にかけてどうにかしようとしてくれる人がいることは、とても心強いことでした。


学校という小さい単位ではあるけれど、まだ世界を多く知らない生徒にとって「学校」という世界は逃れられない大きな存在に見えてしまう。


学校に行けないことで悩む子には、その目の前の世界以外が見えなくなってしまう。

だから逃げ道がないように感じたり、迂回する道も、違う道も一切見えなくなってしまうのではないかと思います。


自分が行くべきと思っている輪から弾き出てしまった者には、常に「孤立」がある。

でも当時、少しずつでも先生が接点を作り出してくれたから、片手だけでもずっと引っ張り続けてくれていたから、私は孤立して終わってしまうことがなかったのかも知れません。

そんなふうに、救いの手を掴めたら、なにかの解決や改善につながったりもする。


もし自分には救いの手がないと感じたら、そのときは救いの手を求めることも、勇気を出して「ヘルプミー!(助けて!)」と声を出すことも、実は大切なのかもしれません。

意外にも周りの人からそんなふうに「ヘルプミー!」という言葉をきっかけに、どんどん手を差し伸べてもらえたりすることもこの世にはあります。


だから、勇気はいるけれど、孤独を感じているときこそ、叫んでみるのも良いかもしれません。




大人になった自分がもし声をかけるなら……


 大人になったいまの私が、当時の悩んでいた自分にもし声をかけられたら、どう声をかけるだろうかと真剣に考えることがあります。

そんなとき、かけられる言葉はないのかもという結論にたどり着きます。
結局は、自分がその都度で最善だと思う選択を積み重ねてみるしかないから。


だから、ありきたりな「大丈夫だよ」「なんとかなるよ」「ありのままで」なんて無責任な言葉を並べて、当時の自分から睨み返されてしまうかも知れません。

それぐらい、悩む本人にとって外部からの声は何を言っても軽く聞こえてしまうと思うのです。

それは「孤独」を感じているから。
真っ暗なトンネルのなか、本人からは何も見えない状態で「大丈夫だよ」「なんとかなるよ」「ありのままで」なんてどこからか声だけが聞こえてきても、信じられない。

本人は先が見えない恐怖と、ここから抜け出せれるだろうかという心配でいっぱいだから。

でも大人になって言えることは、いまは真っ暗なトンネルで出口がないように見えてしまうかも知れないけれど、実はそこはトンネルではなくて、エレベーターのようなものかも知れないということです。


つまり何が言いたいかというと、トンネルのように先を目指さして抜けきれなかったとしても、それはそれで大丈夫だということです。なぜならば、自分がいるのはトンネルではなくて、実はエレベーターのようなものかも知れないから。


つまり、途中で乗っているエレベーターを変えたり出来るように、周りに選択肢が実は沢山あるということに気がついて欲しいのです。


自分がそこでしんどい思いをして、物事がうまく出来ないのであれば、環境を変えてみたら良い。

環境は他にも無数にあるから。



ペンギンが砂漠ではただの飛べない鳥であるように、生きづらいと感じるように。

思い切って環境を変えて、南極に行ってみたらまるで空を飛ぶように泳げるかもしれない。しかも、その泳ぐ速さはもしかしたら空を飛ぶ鳥よりも早いかもしれないよ、ということを伝いたいのです。


実際の私は、小学校でも中学校でも、「環境を変える」という選択肢がなぜかあまり見えてこなくて、そういったことを行いませんでした。

だから、目の前に迫ってきた環境に自分を適応させるしかない、それが最優先なのだと思い込んで、違う製品のフタと本体をはめ込むように、無理やり入れ込んでみようとしたり、力づくでその形に変形させようとして、疲弊してしまった部分が多いにありました。



でももう少し時間が経って、自分が「これなら大丈夫かも」と思える環境、つまり私立の高校に出会って学校環境が大きく変わってから、学校に行けるようになりました。

私の場合は、あの教室には行けないけれど、学校には行きたい、と感じていたのでそれが自分に合った一種の「答え」を見つけ出せた瞬間でした。



だから、私とはまた違って、学校に行きたくないから学校には行かないと考える人は、自分に合った環境(たとえば、通信制やホームスクールなど)を知ったり、見つけたり、出会えたりしたら、そのエレベーターに乗り換えてみても良いのかもしれません。



 私は最初の記事で、「不登校は薄暗いトンネルのような日々だった」と例えました。


これは私の場合、本当にトンネルだと思い込んでいたからです。


一本のトンネルだと思い込んでいたから、それ以外の選択肢があまり見えなかった。どうやったらその一本のトンネルの出口まで辿り着けるのかだけを模索して、日々健闘していた。


でもそれは本来の自分を無理やり大きく折り曲げてしまうことだったから、それで疲弊してしまう部分が多いにありました。

そして結局は、その薄暗いトンネルにある日とつぜん光が灯って、全てが見通せるようになった! なんてことは起こリませんでした。そのトンネルをただ歩き続けて「卒業」というトンネルの出口にたどり着いただけでした。

ただ、サーチライトを拾いながら、足元を照らしてトンネルをただ歩いて抜け出てから振り返ってみると、もしかしてあれはトンネルじゃなくてエレベーターのように、もっと自由にいろんな環境があったのではないだろうか、と初めてそこで思えたのです。

それもこれも全て身をもって経験したいまだからこそ、振り返って言えることで、当時の私には全く分かりませんでした。


つまり当時の私は、トンネルをただ歩いて出口にたどり着くという方法しか思いつかなかった。だからトンネルにいる限りは、出口まで歩き抜いて出るしかない、と思い込んでいた。その考えに囚われて、苦しんでいた部分が大いにあった。

けれど、もしいまその経験を振り返って当時の自分になにかメッセージを届けられるのであれば、「不登校をトンネルのように捉えなくて良いよ」と声をかけたいです。



自分に合った生きていく環境は数多にあるということを伝えても、当時の自分には分かってもらえないかも知れないけれど、生き方は本当にいろんな種類があるから大丈夫ということをやっぱり伝えようかな。

だから「大丈夫」なのだと。



校外学習


私の通っていた中学校には年に一度、大きな校外学習があった。

班ごとに分かれて長距離を歩くという内容で、これならば教室じゃないし少人数での行動だから自由が効いて来やすいのではないか、という先生からの提案だった。

私は悩みながらも参加することにして、当日はもちろん何日も前から不安で埋め尽くされた。


面と向かって「お前、不登校なんだろ」とか言われることはなかったものの、「あいつ、不登校の○○だ」と言われることは日常茶飯事になっていて、背後では「あいつ不登校だから、仲良くしない方がいいぜ」みたいな声がずっと背後から聞こえてくることもあった。



廊下を歩いていても色んな言葉を投げかけられ、定期テストを教室に受けに行くときも、歩く先ではモーセの海のように私が進む方向からみんな一斉にざっと引くような感じだった。

みんなより頭一個分ほど身長が小さく、まだ小学生のような幼さを纏う私は、その容姿も関係してかすぐに注目されてしまい、廊下を歩けば「チビ!」とからかわれ「あいつが不登校の○○」とすぐに覚えられてしまった。


少数派の不登校から見た、大多数派の学校は、実はそんな残酷な場所だった。


参加したらどう思われるんだろう、嫌なこといっぱい言われるだろうなぁなんて永遠に予測ループをしては「嫌だな、行きたくないな」なんて考えながら、当日の朝を迎えた。




課外学習、当日の朝


 朝起きて支度する間も食欲がなく、あまり朝ごはんも食べられなかった。

結構な長距離を歩く予定で、体力が必要な活動だったため大丈夫かなと不安になりながらも向かった。すでに同級生たちがたくさんいて、私の視線は自然と泳いだ。

大量に同級生たちがワチャワチャいて、あぁこの感じだ……とお腹がきゅうっとつねられたような痛みを感じながら、逃げ出したくなる気持ちをグッと堪えて、なんとか自分の班に合流した。


班のメンバーは、私が中学校に行けていたときには仲が良い子たちばかりだった。けれど、いまやお互いにどう接して良いのか、どんなテンションで話しかければ良いのか分からずぎこちない雰囲気で完全に私は浮いていた。

でもこれはしょうがない。互いに小声で挨拶を交わすだけだった。




スタート地点から半分を過ぎたころ、歩くなかで途中から雨が降り出した。

体操服の上からカッパを着ていたけれど靴下までずぶ濡れになって、冷たくて、寒くて、しんどい。空腹に冷たいアクエリアスを飲んだからか、気持ちの面も関係しているのか、急激にお腹が痛くなり途中で何度も立ち止まってうずくまってしまった。

班のメンバーはどんどん自分たちのペースで進んでいって、何度も姿が見えなくなった。頑張って早歩きで合流したとしても、休憩を終えたばかりのメンバーは、私が追いついた瞬間にまたスタートしていった。追いついたと思っても、またすぐに追い越されてゆく。

私は休憩もなく、ひたすらに歩いた。

途中からは雨なのか汗なのか、涙なのか分からないほどずぶ濡れになって、でも頑張って最終地点までひたすらにみんなの後を追って歩いた。

今から振り返ると、まるで当時の自分の状態みたいだ。


最終地点に、みんなはしんどいながらも普通に歩いてたどり着ける。

でも私は、朝ごはんも食べられず、うずくまるほどの謎の腹痛に襲われて、泣きながら学校を目指す。

まるで不登校の自分と同じだ。

そこまで苦痛を感じず毎日登校する子が多くいるなか、私には苦痛を感じることで埋め尽くされている。

毎日、教室に通うことができればいっそのこと楽なのに、でもどうしてもそれができない。頭が、体が、魂が、全身を使って登校拒否して、そうなるともはや行けな
くなる。個人的に、不登校って簡単に言えば、そんな感じだった。



 学校に行きたくなくて、行けなくて、行けない。


それは紛れもない自分の選択であるのに、覚悟なんて大層なものもなかった。

行けないから行けない、理由はただそれだけで、もしも他に選択肢があったのであれば、そちらを取っていたかも知れない。



私は「あの」教室には行けなかったけれど、勉強も友だちも好きだった。



もちろん、勉強や友人関係にだって色々あるあから、両手をあげて好きです! なんて誰も言えないことを分かっているけれど。教室には行けないけれど、友だちとバカ話をして笑ったり、一緒に勉強をしたかった。でも重苦しく圧迫される教室にいることはできない。



せめてもうちょっと少人数でパーソナルスペースが確保されていて、個人行動を重視したような授業スタイルであれば。


これはただのワガママだったのだろうか、矛盾なのだろうか。学校に行くことがやっぱりどうしてもできなかった、ごめんなさい。でも見捨てずにありがとう。



こうして私の中学2年生も長いようであっという間に過ぎ去っていった。

私がゆくゆく学校に通うことのできる、理想の環境に出会うのはもう少し後の話だ。


次回は #10 小学校で止まった学力のまま中学3年生に【7年間の不登校から大学院へ】を更新予定です。

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