初見演奏と同時通訳の類似性
今回は、長年興味深く考えている、毒にも薬にもならない話である。もし同じことを感じる方がいらっしゃれば、と思い書いてみた。
ピアノの初見演奏と同時通訳は、脳の使い方にしても、習得のプロセスにしても、状況への対応にしても、かなり類似する部分があるのではないか、とずっと考えている。そこで、細かく比較してみる。
両者とも、相応のトレーニングと努力を積み重ねて身につけられる能力であり、プロフェッショナルな領域だ。ピアノを弾ける人はたくさんいるが、複雑な楽譜を適切に初見で弾ける人は限られ、同様に、2カ国語を使える人はたくさんいるが、瞬時に別の言語に的確に訳せる人は限られる。特殊能力のように見えるが、どちらも訓練の成果である。
〈技術面の類似点〉
1、インプット・アウトプット同時進行の情報処理
最も似ていると感じる点である。
ピアノは音を構築する楽器であるため、他の楽器に比べ、圧倒的に楽譜の情報量が多い。音符の多さはもちろん、付随する記号も膨大だ。伴奏の場合はスコアになっているので、自分が演奏しない部分のパートも見る。これを初見でやる場合、実際弾いている部分よりかなり先を見る。おそらく熟練している人ほど、前の小節を読んでいる。これは音に出す前、頭の中で情報処理する際、仮に何か引っ掛かかるものがあっても、実際に音に出すまでに修正出来るからである。楽譜というものは、和音あり、装飾音あり、臨時記号あり、転調あり、拍子の変更あり、テンポ変化あり、と、もうきりがないくらい、情報が詰まっている。これを目からインプットし、手と足でアウトプットしていく。音楽は常に流れていくので、目は常に0.数秒先の情報を読み取る。耳は現在の音を聴き、目は次に備え、頭の中で音を構築していく。初見演奏とはつまり、タイムラグのある2つの動作を、淀みなく連続させる作業である。
この作業は、同時通訳とかなり似ているのではないかと思う。こちらはインプット、アウトプットとも音声だが、2つの動作を同時進行で、滞りなく情報処理し続けるという点は、まさに似ている。両者とも、タイムラグのある2つの動作を並行処理している。また、音楽と言語という違いはあれど、一時的に、記憶を保持してアウトプットするという点も、酷似しているように思う。入ってくる情報を瞬時に次々と記憶し、的確にアウトプットし続けるという作業は、類似点が多い。
2、進み続ける流暢さの要求
初見演奏も同時通訳も止まれない。流暢さを保つ必要があり、これには咄嗟の判断、臨機応変なアウトプット、経験値がものを言う。例え力の及ばない箇所に出くわそうと、あくまで冷静に進み続ける。一定のテンポを保ち続けることが、双方とも要求される。一度インプットとアウトプットのタイムラグの幅が崩れると修正が難しく、一定の速度を保ち続けられるかどうかが流暢さの鍵となる。頭の中で徹底したテンポ管理をする必要があり、かなり類似していると思う。
3、完成を求めず完璧に魅せる技
同時通訳で訳出できる内容は、8割くらい、と聞いたことがある。これは同時通訳の性質を考えれば納得する。100%を要求するならば、逐次通訳で時間をかけて、ということになるのだろう。完成した文だからこそ完成した訳になるわけで、次に何が来るか分からない内容を、瞬時に、完全に伝え切るのは不可能だ。
初見演奏も、熟練した人は、全て弾くことで完全さが損なわれると判断した場合、より重要な要素に重点を置き、気づかれにくい部分を省くことがある。例えば、極端な変拍子、調性に乏しい現代曲、規則性の全くない音型などは特に弾きにくい。何を犠牲にするかは、刻一刻と変わる曲想の中で瞬時に判断するが、より美しく、完璧に聴かせるために、敢えて省略することもある。急遽、伴奏のピンチヒッターをするような場合、この方法は有効である。ただし、省略はやはり最小限に留めるべきだ。
〈習得の類似点〉
1、論理的理解(楽典や文法の知識)が基盤となる
即興演奏などだと、たまに本当に感覚だけでやっている人もいる(しかし大多数は作曲法などをしっかり学んでいる)。だが読譜は、楽譜を理解することが必須で、楽典知識なしに成り立たない。完全に楽譜の構造を把握していることが、素早い、的確な情報処理を可能にする。初見能力の高い人は、和声分析出来るくらい作曲の知識も持っている。こうした知識が、瞬時に楽譜を音として把握し、次の展開を予想する助けとなる。また、熟練した人ほど、フレーズとしての塊で楽譜を見る。これは速読などのテクニックと似ているかもしれない。一度に読み取る幅が広いほど、素早く情報処理が出来、前後の繋がりがスムーズになり、的確にアウトプット出来るのだ。これらは全て、理論の知識があってこそだ。
言語も同様に、文法構造を習得することなしに流暢さを手に入れることは不可能だ。よくあるような、聞き流すだけ、丸覚えといった学習法は、遅かれ早かれ限界が来る。それは、文章を組み立てる基盤がないからである。自在な表現のためには、如何様にも応用の効くベースが必要だ。同時通訳者は、二言語の文法構造把握が徹底しているように思う。
このように確固とした基礎が高度な処理能力を支える。決して行き当たりばったりにやっている訳ではなく、知識とそれを用いた経験の積み重ねの結果として、可能となる作業なのである。
(ピアノテクニックで言えば、スケールやアルペッジョなどの基本音型を全調で同等に弾けるというのは、初見演奏で欠かせない基礎となる。)
2、集中力と緊張感のコントロール
両者とも一発勝負である。やり直しが効かないため、相応の集中力が求められ、緊張感の中で取り組むことになる。ただし慣れると、プレッシャーの中でこそ、最大限能力を発揮出来るという場合が多いのではないかと思う。人間はある程度緊張感のある場でこそ、本領が発揮出来るとも言えそうだ。初見で弾いた楽譜を家に持ち帰ってもう一度弾いたら、二度目にもかかわらず、初見時より弾けなかったということはよくある。
ただ、集中力という点に関して言うと、初見演奏と同時通訳で少し異なると思う点もある。同時通訳は極度の負荷がかかるため、15分程度で交代することが一般的なのだそうだ。初見でピアノを弾く場合、もっとずっと長い間集中を保つことが可能だ。おそらく、楽器演奏は手続き記憶となっている部分があり、視覚情報と動作の連動が自動化している部分があるからだ。例えばギターを弾く人が、コードを見るとその形の手になる、というのと同様だ。ピアノも、両手でかなり複雑な動きをしていても、それまでに培ったテクニックの複合形であり、テクニックと理論が結びついて、流暢な初見演奏が可能となる。
3、幅広い領域に触れ続ける必要性
音楽は言語に比べ抽象的と思われるかもしれないが、楽譜は数学的な完全さを持っており、多くの記号を駆使することで、誰が読んでも同様に演奏できるよう出来ている。しかし、時代や作曲家によりスタイルが違うため、あらゆる楽譜に対応するためには、あらゆる種類の音楽に触れておく必要がある。例えば、古典派の楽譜は、ただピアノで弾くだけであれば、さほど難しくない。しかし現代に近づくほど複雑化し、新たな作曲法も登場し、初見で弾けるには高度な読譜力が必要となってくる。幅広いスタイルを理解しておくことが、不可欠だ。
通訳も専門家並みの広い知識が要求される。同時通訳に限った話ではないと思うが、瞬時に適切な訳語を当てるには、普段から相当な範囲の分野に触れ続ける必要がある。滅多に使われない古い言葉から、生まれたばかりの新語まで押さえておく必要がある。多くの文体とスタイルに触れ、常にアップデートが必要だ。終わりのない過程だ。
このように、両者とも、傍目には何の労力もないように見えたとしても、それを支える勉強量は半端ではないのである。もし偶然これを読んだ同時通訳者の方がいらっしゃれば、是非ご意見を伺いたいと思う。