Dairon
MakeMeMoveSeriously-figure of context-
及びデイダラボッチ。夜の世界は目に みえない。けれども、みえないところ から世界は浮かび上がってくるとして やはり、クリーチャーのペイルマンが 森林の神のひとつ目小僧と被ってきて そこに弁天さまがおもてとうらでまた あわさってくると、ひとつの編み目が みえて来る。後醍醐天皇は島流しにも 遭われて戻ってきたし、豊臣秀吉の眼 は、重瞳だったと貴人の相として扱う 武内宿禰にいたっては300余年いきた 漱石山人の温泉行は神がかってもおり サナトクマラ、金星の大
愛は免疫相互作用で、お風呂は全身温灸 Detoxも放射線状に同方向で生活歴史を している。とか、プロフィールにかいて いたけれど、人=自分が動くときには この肌の感覚が強い気がする。たぶん 同じ味噌を食べて、おなじミキを吸い 内面の旅が、世界と一致したときなど 同じ周波数を持ったトランシーバーに 親い作用で人は動くのだ。と思うので これは、鬱っぽい一年中の年中行事に 似た性格で、いかに動けるかの根幹で 菌が動かす。と言っても過言ではない ようだけれど、
しんみりと、倫敦の夜霧とは。とか、 漱石先生もこんなのをみたのかなあ とか、箱根の昔うつされた島みたいな 伊香保の写真もしかり。なんだかまた とてもノスタルジーを感じるのだった 武内神社の前をとおりすぎ、そうして 後醍醐天皇の史跡を横目にしてあるき 鞍馬山をたずねて魔王殿を伺った際の 因襲みたいなのには、夢のなかであの 坊ちゃんスタイルの建物などなど、を この霧の雨に投影する、記憶の宇宙船 おそらくは、平たい岩などはそうゆう たぐいの記憶の集成みたいな
サルスベリの木が、いつも沢山の花を 咲かせて、毎年舞い落ちるのだけど 気づいたら、藤のつるが巻きついて いくらそれらしきのをカットしても 引っぱったりして一向に外れないから 高枝切りバサミとかいるかなあ。と ぼんやりしつつ、寝起きにまた出て 入り込んで行き茂みのなかから手を 突っ込んで伸ばして、どんどん、と カットした。最後の一本、ようやく 見つかり、バリバリと全部連れては ブッシュからパジャマで出てくると。 ひとつ、ひとつがすんでスッキリする 思っ
ある意味、勘違いの延長に真実が。 ものごとのクリアリングが、僕には ある予定の先の出来事の、2,3日前 までに済んで、情緒的に完遂する。 コレは、初め荒唐無稽な現象として 感じられたが、だいたい経験則など おぼえてくると、こうなんかなあ、と 認識して来るのだった。それにまし そのさいに行動する段階で、また 色んなかたと交流すると、それは 相互作用で解きほぐしてくださるの を察知したり、先に情緒をくだいて それから、場におもむき、体験して のち解放され
湯川潮音の『緑のアーチ』などなど ききながら、コーヒー焙煎をしてる 壊れたマンドリン、の節でながれる、 弦の響きもとても好き。母が何か 見知らぬ楽器を飾っているからと それは、なに?と訊いたらそのとき マンドリンだよ、と答えてもらって 初めてみたのをおぼえている。あの コーヒーをドリップするさいに瓶に 入れて行ったブレンドは、グジとの コロンビア、メキシコをあわせたの だったけれど、自分でのんでみたり そこではミントみたいなとてもまた ふしぎなかおり
いわく、黎明には何かものごとの 動くとやら。はちみつドリンクを いただいて、早朝からタープやら 重しやら、椅子など什器もろもろ 運んで収納返納させていただく。 おもうに朝日に照らされた紅葉は 自然な感情を誘う。なにげにまた さりげなく、美しい。蜂さんにも 冬があり、日本ミツバチは越冬する から。その雪を被った巣箱をみるの につけ、また清澄な気分になると。 そうゆう記憶をいまは甦らせては しずかさに融けてしまいたい。この 越冬、あきふゆ。エトセトラほっ
おもうに、自然の成り行きがまた 風が起こるときのように、ふいに はじまるようすで、物事の運気は そっと、頬をなでる。自分に合う ながれを呼ぶには、R.シュタイナー が主著で真理感情に照らしてなど のべた感覚で、自己よりも真理に とって運気を補正してくれるまずは ポイントを探すように想うことが 損得よりホントにうまく行かせる ところなのだと思う。マイナスでも ところが、それは可もなく不可も なく平穏に往かせる状態だったり する。疲れはよりねむれたりして
お店の出店の日、夕べにお菓子を 受け取り、貴重な珈琲セットもて 秋空の下。黙々とコーヒー淹れる 13.3gの量りは果たして適してるか ホッとコーヒーを標榜して入れる コレが最適合か。を、また考えて ただ、その場所に居られることに 感謝しながら、グルーヴとかあと なんだか貫く大地の顫動みたいな あの震える感じはまだ余韻が深い 愛なのか、愛なのだけど真実でも ある。そうして情熱の灯に照らし そこに文字通り光の柱が立つと、 なみだが溢れて心が開く。それで
お水汲みを素敵な音楽会のあとに 黙想的で内向的にいられる空間を 久しぶりに共有する感覚と、その 交じり合うさまざまな想いに照らし ゆれる灯りの明滅。一夜明けては なにか収穫を終えたあとの豊かさ コーヒーカップに貼り付けるのは 自作のシールだけれど、こんな事を ストーブたまに点けながらしてると お腹すいてもあまり食にむかない 感じとかとにかく籠っていたいと 秋の落ち葉と同調する心地には。 汲んできた湧水で炊飯器にかけて 夕食まで待つ。なにやらしないと
コーヒー出店以後、合間があると 何かしよう、と思ってしまうのか 蜂仕事のお手伝いをしたり、また スズメバチに果敢に挑んだりして 蜂さんのようすを伺うがいたって 元気。洗濯機をまわしたり、あと 床掃除をしたりと日常の造作など かけがえないものと感じる。その 蜂仕事も、蜂さんのようすを見守り 段を継いだり、天敵から防いだり 巣切りをして、採蜜をして糖度上げ を経過としてみつめることがひとつ いとなみであるのか。それを趣味に 感じられる年間の時の流れが、ま
なんらかの、動物に恣意的な気まま の要素は勿論あるし、自由が本能に 比して少ない。と、言うのも、よく わからない話だが、現に種の保存を 本能的に適えている。ところでこの 人間の知性もやはり、考えすぎずに 何かしらの野性、例えば宇宙的な声 に聞き入れば存命を継いで行くこと が出来るのでは?いよいよ、何だか 瀬戸際にきているような、昨今の 状況をみるにつけ、この考える所 の人間の意志みたいなのを哲学で 自由とは言わないかもしれないが 一度、取っ払って未来
コーヒー出店、お店のお菓子と共に 横でいつもドリップをして、過ごす 大樹のもとで設営して、ご近所様の いつもの愛犬を相棒にしていただき たまに足元で、すりすりして来て ホントに可愛い。無事2ショットも 撮れて、きょうの日の撮影は終了。 じゃ、なくてドリップを有難い事 に、ほんとうに常にさせて頂けて ぼくは珈琲を入れるのが好きだと 気づくし、あんまりひとと接する ことがないのに、沢山の方と触れ 会釈したりすることに、新鮮な 感覚をおぼえるので、それはも
ふと、精製されたきよらかな砂糖と それを使ったきれいなお菓子につき 買い物をしよう。と出かけて行って なにか自分のなかのズレを感じると 湧き水を汲みに行っているし、また ぼくには終着点に、鴨長明ではない けれども、川の淀みに関する表現 言い換えれば天然自然の灰汁へと 続く、Winding roadなどがあるの では?河童とかもそうなのかなあ 現代では、スッポンみたいな、その そうゆう生き方がまっているのでは と、などそこはかとなく想うのだった パチュ
誰かしらみな休憩中とあり連絡も ないから、はまちのペスカトーレを つくり、はまかトーレできたよー とかメールして帰りを待つがだれも 来ない。クラフトもすすめたいが また返事もないので、ご飯も食べず 厚着をして、ぽっかり合間にこの 運筆。きのうは夜まで徹夜明けで 変なテンションで寝落ちしてどこか 違う人生にワンダリングしつつ目が さめ、お風呂と歯磨きをしたらば すぐ朝までねむった。雨しとしと すこし曖昧で、茫然としたお昼で 最近、独りで食事をすることさ
あしたは餅つきで、杵臼をはこんで 一息ついたら妙にねむたくなったり 横になっていた、すると、後頭部の いつも凝っていたとこあたり、かな ボキッと言うくらい骨の折れるほど ひびいて来て痛みはなく、むしろの ほどけるくらいだが何がなんだか よくわからない。ほんとうに鳴って いるのか、夢の中なのか。それで 紐がするり、と抜けるような感じ から、しばらく横になってまたその あとで、仕込みしたりしていた。で、 気づいたら深夜を過ぎているから 連絡を返したりまっ