日常の絶え間ない忘却へのささやかな抵抗
普段は開けない戸棚の奥底には、中学生の頃に書いた読書感想文の原稿がしまわれていた。色褪せた応募票の題名の欄には、『記憶には残らないもの』と書かれている。上記の文章はその冒頭の部分である。
幼い頃、記憶を失うこと、忘れてしまうことへの恐怖心が強かった。幸福な記憶は長くは続かず、つらい記憶は歪められて変質し、生々しい感情は時間というヴェールに包まれて薄く淡くなっていき、やがて消えていく。そのことが何よりも、死ぬことと同じくらいに怖かったのだ。
感想文は、以前自分が交通事故にあってごく軽度の記憶喪失にあったことや記憶というものの不思議さなどに触れながら、こう続けられていた。
記憶を失ってしまうということへの恐怖
認知症は、記憶の忘却というものを考えるときに身近に思い浮かぶことの一つだろう。映画『The Father』では、アンソニー・ホプキンス演じる認知症の主人公が、混濁する記憶の中で日常を送っていく様が主観的に描かれている。
過去、現在、未来、という時間軸も、今どこにいるかという空間感覚さえも交錯してゆき、さらには自分が何者であるのか、という存在すらも怪しくなっていく。認知症をヒューマンドラマとして描いた映画は数あれど、認知症を「記憶の喪失の恐怖」という主観的な視点で捉え直すことで、より真に迫った映像表現が実現している。
記憶が曖昧になっていくことで、周囲を理解することも、周囲から理解されることも困難になり、世界とのつながりは徐々に失われていく。現実なのか幻想なのかもわからない世界で必死に正気を保とうとしているにも関わらず、強固に感じていた自分自身の自我が崩壊していく様子は、紛れもないホラーである。私たちの日常の延長線上にあるかもしれない事態が、残酷なまでに描き出されている。
記憶というのは流れ行く川のようなもので、私たちは忘却に抗うことなどできないのだろうか。私たちはただ忘却という不可逆の流れに身をまかせることしかできないのだろうか。
ここにひとつ、認知症にまつわる興味深い例がある。
『有名な歌手であるトニー・ベネットは、アルツハイマー病を患い、病気の進行からコンサートの開催が危ぶまれていた。しかし、リハーサルで伴奏者ピアノを演奏し始めると、彼は歌詞やキューカードを見ることなく、記憶だけで1時間のセットを歌い上げたという。ミュジカー氏は番組で「完全に没頭し、全く新しいフレーズ、そしてパフォーマンスだった。まさに奇跡だった」と語っている。
コンサート当日、ベネット氏は12曲以上を歌い、観客から20回以上のスタンディング・オベーションを受けた。レディー・ガガが最後のデュエットでステージに登壇した時、彼女の名を嬉しそうに呼びかけた。彼女は「トニーが私の名前を呼んだのは、久しぶりのことだった」とのちにその感動を明かした。(下記記事より一部抜粋)』
この一例は、忘却に抗うひとつのあり方を、示しているように思われる。
7秒しか記憶が持たない女性が書き留める人生
『博士の愛した数式』のようなフィクションに限らず、記憶を実際に短時間しか保つことができない病気は実際に存在している。
三重県に住む水田順子さんはヘルペス脳炎を発症した後遺症で、7秒ほどしか記憶することが出来なくなった。 彼女は出来事や友人との会話、相手の表情などあらゆることを手帳に書き留め、途切れ途切れの記憶を繋ぎ合わせることで、なんとか生活している。彼女は片時もメモをする手を休ませず、部屋にはその膨大な記憶の欠片が、山となって積み上げられている。
彼女が同じ病気を持つ男性と会った後にとったメモには、こう記されている。
「生きてる実感 少しですけど書いてる 生きてるの 記憶って?人生」
「○やり方違う 残していこ どうして? のこそーと 何のため?
○生きていくため あかしがほしい?」
同じ病気を持つ男性は、一日に書くのは出来事を手帳に1ページほどで、水田さんほど、すべてのことを記録したりはしない。彼女の、ある種執着とも言えるほどのメモ。水田さんの主治医や、あるいは同じ症状を持つ男性のように、「大事な出来事だけ書き留める」ということもできるはずだ。でも水田さんは、どんなに些細なことも書き留め、図を描き、写真を撮り、懸命に記憶を手繰り寄せようとしている。
彼女はまたこう語る。「最初はなんかこう、怖いから書いていたとかねぇ、揉め事があったときとか、自分の責任でやっとかなってなったときとか...でも残したい記憶とかもようさん出てきたりとか、記憶って人生ですもんね、ほんとね」
彼女にとって片っ端から消えていく記憶を書き留めたメモは、人生そのものなのである。そして、書き留めることは即ち、彼女が生きているということであり、彼女の生を表現(representation)するものなのである。
彼女は医者にすべてのことを書き留めるように言われたわけではない。もちろん、書かないとあらゆるところで不便なことになってしまうというのも大きな理由だろう。だけれど、その根幹には、書かずにはいられない、残さずにはいられないから書いている、という衝動があるのではないだろうか。
表現することは、忘却へのささやかな抵抗である
「なぜ書き留めるのか?」という彼女に対する問いは、そのまま私たちに投げかけられる。誰に頼まれてもいないのに、人は日記を書いたり、写真をとったり、風景を描いたりする。
私は、広い意味での芸術、いわば表現と言われるものは、忘却という流れに対するささやかな抵抗なのではないか、と思う。ここで少し表現、というものの意味について深掘りしておく。進化論批評について書かれた本では、表現について以下のように定義している。
ここで少し難しい言葉で再現前化、と書かれているのは、representationの訳語であると考えられる。representationとは、表現、表象、と訳され、一般には、知覚したイメージを記憶に保ち、再び心のうちに表れた作用をいう。再現前化については、以下のブログを参照されたい。
わかりやすく簡潔に、representationを表現と記すが、ここでいう表現は、目の前の景色や心に浮かんだイメージを絵で描くといったわかりやすい表現だけを言うのではない。
架空の物語を綴ること、どこかで聞いたメロディーを口ずさむこと、ピアノやギターで曲を弾くこと、それを楽譜に書き起こすこと、感情の赴くままに踊ること、詩や小説を朗読すること、反芻して思考すること、写真を撮ること、書き留め、紡ぎ、描きだすこと。
これらはすべて、表現であり、私たちはみな何かを表現しながら日々を生きている。水田さんが記憶を残すためにメモを取ることも表現であり、おびただしいメモはその表象である。『The Father』の主人公がタップダンスすることも、トニーベネットが病気の淵で歌ったことも、いうまでもなく表現である。
残しておきたいものを、残さずにはいられないものを、自分の生きた証を、いずれは消えてしまうとわかっていても、なんらかの方法で形にしていくこと。
結局忘却という緩やかな死から私たちは逃れられない。けれど表現をもってして、それに刃向かうことはできるのではないか。表現は、残酷な時の流れに一矢報いる手段なのではないだろうか。
最後に、冒頭に触れた読書感想文の締めの部分を書き記しておきたい。
八年前に書いた文章に、そしてこれを書いた彼女に今の私が付け加えるとするならば、こう言いたい。私たちは、表現という術を持っていると、だから大丈夫だと。