秋を待っていたよ
ぐんと一気に秋が近く感じられるようになりましたね。
夏が終わってしまったセンチメンタルな気持ちは抱えたまま、季節は移ろう。さみしくもあるけれど、今年もすてきなことたくさんできたと、寒い季節を頑張る養分にする。そのまえに、秋もたくさんたのしみたいね。
ごはん、スイーツ、デザート、芸術、読書。
なにをするにもぴったりの秋も、わたしは待ってたよ。
頼りたい 頼られたい
いつもしあわせじゃないよ
悲観的になっているわけではない。
私はnoterさんからどのように見えているのだろうか。楽観的な人?悲観的な人?明るそう?暗そう?おしゃべり?ものしずか?
分からないし、普段関わる人からみた私の印象も分からないけれど、「しあわせ〜!」「たのしっ!」とか言う割には悲観的でネガティブよりだと思う。私の最近の日々はしあわせで楽しい。でもこれはずっと永遠と続くわけでないと常日頃思っている。悲観的なつもりはないけれど、この考え方は悲観的にも見えるだろう。
笑えない日々があることを知っている
にこりともできない日々があった
そんな過去が私にそう思わせているのかもしれないけれど、そもそも私たちには頭があるから、簡単になんて進まないと思ってる。どんなことにもハプニングはあるし、トラブルも生まれる。頭で考えてリスクヘッジのために、最悪の事態を想像するし、先の見えない未来に不安にもなる。
生きていれば良いことも悪いこともあって当然と思っている。人よりもそれを強く意識しているのかもしれない。
だから私は、楽しい時は思いっきり「たのしー!!!」って言うし、幸せな時は「しあわせ!」と言う。
そして今の私は無駄に力を入れすぎなくていいことを知ったから、辛い時にも「辛い」って言えるようになった。
楽しくてしあわせで、そんな日々を送れるうちは、なるべく周りの人にも気を配ってできることをしたい。助けを必要とするならどこへでも今すぐに駆けつけたい。だから困った時は「助けて」って言えるようになりたい。そうして私もちょっと支えてもらいたい。ひとは一人で生きていけないんだから、積極的に支えにいきたいし、私も支えてもらいたいと思う。頼りたいし頼られたい。そんな生き方を私はしたい。
伝えたいときのためのnoteなんだよ
いざなにか書こう!書かなきゃ!
そうなったとき、こうして毎日書いていればきっとそれなりに書ける。でも毎日書いていなかったら?書きたいことも、話の持っていき方も、読まれる文章の書き方も分からないかもしれない。
それじゃもったいない。
いつ来るか分からない「書かなければならない」「伝えたいことができた」そのときのために、日々筋トレをするんです。
影響力の強さ
それから、昔インスタでフォロワー3000人に達した時、その発信力の強さを知った。
その界隈の中ではあるけれど、インスタの4桁の影響力の強さと、同時にその上のすごさを感じた。
こんな無名のちからの無い人でも、世の中に訴えるには力が必要。
私はnoteで数にこだわることはしたくないけれど、いつかしたくなる時がくるかもしれない。
そのときのための訓練でもあるのかもしれない。
わがままなくらいでちょうどいい
わたしたちはさ、たぶんもっと自分に我がままになっていいと思うの。
なんでこんなにさ、
「今いいかな」
「忙しそうだな」
「こうして欲しいんだろうな」とか
気を遣ってしまうんだろうね。
そんなことしても
自分のためにはこれっぽっちにもならないのに。
それで自分の気持ちを蔑ろにして、
すればするほど自己否定に繋がっちゃうんだよね。
どうしたら生きづらい人が生きやすくなるかなんて
私には分からない。
でもさ、たぶんわたしたちは
ちょっと気を遣いすぎだと思うの。
それだけは分かる。
たまにはちょっとくらい図々しくなっても
誰にも怒られはしないよ。
ちょっとだけでもいいからさ
図々しくなにかを言ってみても、求めてみても、
大丈夫だよ。
手を繋いで、スカート靡かせて歩こうよ
秋だ。秋がきた。
一昨年まで、短い秋に思入れもなく、かわいい服もなんだか似合わなくて過ぎ去る季節だったのに、昨年旅に出てから好きになってしまった。
今年も遠くへ行けるとは思っていないけれど、遠くじゃなくてもいいから、外へ出たい。5月に家の中で引きこもっていた分、外へ出たい。
涼しい過ごしやすい時期に、美味しい食べ物と、たくさんの◯◯の秋。
食欲の秋、読書の秋、芸術の秋。
ぜんぶやろう。やりたい。
今年はそろそろ服も買って、かわいい服着て、スカートひらひらさせて、手を繋いでデートしたい。
お給料も入ったし、そろそろ服を買いたいな。