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安心な場所

この世に生まれて初めて接する大人の男性。それが父親だ。

私の父は、自分が絶対の人だった。そこに歯向かう人は、彼にとって悪で、必要のない者だった。

7つと6つ年の離れた姉たちがちょうど反抗期に入り自分の思いどおりにならなくなった頃、私はまだ6才で、親の言うことになんの疑問も持たずに生きていた。そんな私を見て、父のターゲットは姉たちから私に移ったのであった。

父の理想の子供というのは、どうやらよく勉強のできる子だったらしい。保育園の年長クラスになると、帰宅後、毎日決められた時間割りをこなす日々が始まった。最初のほうこそ、その新鮮さから素直に言うことを聞いていた私だが、やはりそこは幼い子供である。途中から勉強に飽きてしまい、やりたくないと駄々をこねることがしばしばあった。すると父は大きな声で怒鳴りちらし始めるのだ。そしてよくある木製の30センチ定規で机のうえをバンバン叩きつける。大人になったいまでもその光景は忘れない。母が止めに入ろうものなら、その怒りはさらにエスカレートしてしまう。だから母にはなにも手出しも口出しもできない。そうして、その怒りへの恐怖に身を強ばらせながら、私はまた勉強を再開しなければならない。そんなことが繰り返される日々の連続であった。

今でいうなら、あれはおそらく教育虐待と呼ばれるのであろう。でもあの頃はそんな言葉、誰も知らなかった。

毎日が苦痛だった。勉強が苦痛だった訳ではない。父とする勉強が苦痛だったのだ。父は私のことなんて、なにも見ていなかった。私の長所を伸ばして育てようなんてそんな考えは毛頭ない。ただあるのは、自分の理想どおりの、そして思いのままに言うことをきく子供を作り上げようと必死だったのだ。

あの数年間が私の人生に与えた影響は計り知れない。親が子にしたことは、その子の人生にダイレクトに影響し、さらに人生を左右する。若い頃は自分の人生がうまくいかないことを、すべて親のせいしていた。けれど大人として年齢を重ねるにつれ、親のせいだけにしていてはいけないことに気づいていく。大人になったのならば、その親から受けた苦しみは、自分自身の力で乗り越えなければいけないということに。だから辛いのだ。だからこんなにももがき苦しむ。

抜け出そうと必死なのに、気づけば同じ場所をグルグルと回り続けている。まさしく負のループ。そうやって同じことを繰り返すたびに、すべてを親のせいにして逃げ出した。でも心の底ではわかっていた。このまま親のせいにしていては、私のこの先の人生に、明るい光が差さないであろうことが。だから踏ん張る。また必死に生きる。この39年、ずっとこんな調子だ。

この歳になって思う父は、幼い頃のときと同じ、ただのクソヤロウだけど、父にも、父の生い立ちのなかで、そういう生き方とそういう愛情表現しかできなかったのであろうこともわかってきた。けれど同情はしない。私はあなたの操り人形になるために生まれてきたわけではないのだから。

父と離れて20年以上のときが経つ。それでもいまだにふいにあの勉強づくめで辛かった日々がフラッシュバックするときがある。その瞬間はあの辛さがリアルによみがえるから、思わず涙が出てしまう。でもそんな時は「小さかった私、本当によくがんばった。よく耐えたよね。えらかったよ。」そうやって自分を目一杯褒めるようにしている。あの苦しみを真の意味で理解できるのは私しかいないのだから、せめて私だけは、私のがんばりを褒めてあげようと思うのだ。そして心のなかで、幼かった私自身をそっと抱きしめてささやくのだ。「もう大丈夫。いまは安心な場所にいるんだよ」って。

安心で穏やかな場所がある。私にとって、それは当たり前じゃないから。多くの苦しみを乗り越えたからこそ、この安心がある。それだけでこの世に生を受け、生きてきた意味はあったのではなかろうかと、思っている。

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