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『裸の聖書』42. 聖書と呼ぶには早すぎる: 聖書の不確かな歴史 -1
こんにちは、もんぱちです❣
真実を知る手がかりの一助として、『裸の聖書』を翻訳し拡散しています。
聖書、と簡単に言うけれど、なんだかいっぱいあるみたい。
わたしたちが「真実」だと信じている聖書。
それはどこで生まれたかによって決まるらしい。
そして信者は、どの書物を信じるのか、誰かに教えられるという。
前回の記事はこちら↓↓↓
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聖書と呼ぶには早すぎる: 聖書の不確かな歴史 -1
『わたしたちユダヤ人を永遠に悩ませている多くの偏見の中で、おそらく最もひどいものは、わたしたちはみな並外れて知的であり、あたかもわたしたち全員がアインシュタインであるかのようだという考えである。』
この巧妙な一節は、ブルガリア出身のイタリア人アーティスト、モニ・オヴァディアの言葉である。彼は自虐的で、ディアスポラ(民族離散)の人々の間で栄えた東欧のユダヤ文化を見事に解釈している。これらの人々は、ヒトラーの軍隊よりもずっと以前から、帝政時代の警察によって定期的に略奪されていた貧しい村で、しばしば知恵を絞って生きることを余儀なくされていた。
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「わたしたちがわかりますか?わたしたちはゲットーの羊です。千年もの間、毛を刈られ、傷つけられ、侮辱され続けてきたのです。」
この詩句は、プリーモ・レーヴィが小説『今でなければいつ』の中で発表した『マルティン・フォンタシュの歌』からの抜粋である。
「わたしたちは仕立て屋であり、写字生であり、聖歌隊員であり、十字架の陰で枯れ果てたのです。」
悲しい歴史的論争を暗示する痛々しい言葉である。
「不誠実なユダヤ人のためにも祈りましょう。わたしたちの主である神が彼らの心からベールを取り除いてくださり、彼らもわたしたちの主であるイエス・キリストを認めることができるように。」
1921年にエドモンド・バッティスティによって編集されたローマ・ラテン語版のミサ典礼書にはこのように記されている。この定型句は、6世紀以来、ユダヤ人が非難されてきた『神殺し』という古代の非難を今も反映している。
彼らの罪とは?キリスト教の救世主に対してエルサレムで宣告された、史上最も有名な死刑判決を下したことである。こうして、前世紀に至るまで、ユダヤ教を信仰する人々に対する不信感は消え去ることはなく、毎年、聖金曜日のカトリックの典礼によって再確認されている。
ユダヤ人の『背信行為』は、1959年に『親切な教皇』ヨハネ23世によってようやく儀式から廃止された。
マウロ・ビグリーノは、皮肉を交えつつも、ユダヤ人に対するこの行動の奇妙さを指摘している。
「もし神が人類の救済には息子の犠牲が必要だと定めたのが事実なら、キリスト教徒は、その神の計画の成功を可能にしたユダヤ人に、『神聖化』とまでは言わないまでも、実際に感謝すべきなのだ。あの有名な死刑判決がなければ、復活もなく、人類の救済もなかっただろう。」
モニ・オヴァディアが言ったように、どのような偏見が、どれだけの偏見が、今もユダヤ系の人々に影響を与えているのか、わたしたちは当然問うべきだろう。
状況をさらに複雑にしているのは、過去と現在の政治の明暗、イスラエルとパレスチナの激しい紛争、そしてテルアビブ政府の物議を醸すシオニズムの推進である。それに加えて、ワシントンで最も影響力のある圧力団体のひとつとされるアメリカ・イスラエル公共問題委員会(AIPAC)のような強力なロビー団体の役割を強調する向きもある。
1903年にロシアの警察によって捏造された文書『シオン賢者の議定書』に記された『ユダヤ・メーソンの陰謀』という伝説的な歴史的虚偽は、ロスチャイルド銀行家が世界のすべての悪の原因であると非難する現代の陰謀狂のおかげで、不氣味なまでに復活しつつある。
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ある種の危険なポップカルチャーの毒は、時代を超えた偉大なユダヤの知識人の名声によって打ち消されている:マルクスからフロイト、アシモフ、カフカ、スヴェーヴォ、ヴァルター・ベンヤミン、ハンナ・アーレント、ヨーゼフ・ロートなどといった人々だ。
さらに、シャガールやモディリアーニの傑作、天才ウディ・アレン、スティーブン・スピルバーグの素晴らしい映画もある。
しかし、一般の人々は、ユダヤ人の苦難に満ちた歴史をどれほど知っているだろうか?
ホロコーストの恐怖はさておき、ユダヤ教に対する一般的な認識は、後にキリスト教徒によって「聖典」として採用された聖書といまだに結びついているようだ。
これは、マウロ・ビグリーノが何世紀にもわたり、神学的解釈によってもたらされた偽りの衣を剥ぎ取った聖書と同じものである。その神学的な解釈は、しばしば信頼性の低い、あるいは明らかに人為的な翻訳に基づいていた。
ビグリーノの『発見』(実際は『発見』でもなんでもない)の多くは、ユダヤ教の釈義によって容易に検証される。
最近、ビグリーノの翻訳について質問されたローマのユダヤ人共同体の首席ラビ、リカルド・ディ・セグニは、「『オラム』という言葉が『永遠』を意味するとはどこにも書かれていない」と改めて断言した。
「ユダヤ人は常に、このようなことについていくらか知っていた」とビグリーノは言う。「なぜ公にしないのか、不思議に思わないだろうか?わたしがそれに質問で答えてみよう:なぜ彼らがそれをしなければならないのか?結局のところ、聖書は彼らの書物であり、彼らによって、彼らの言語で、彼らの歴史について書かれたものなのだ。」
他の人々がその書物を採用し、それを操作して別の宗教を確立し、聖書の伝統の継承者を『神殺し』と非難するまでになったとしても、それは確かにユダヤ人の責任ではない。
結局のところ、聖書はルアックとカヴォドの書物であることに変わりはない。
ガン・エデンの書であって、キリスト教のエデンの園の書ではない。食欲をそそるリンゴもなければ、誘惑する蛇もいない。奇跡的に渡るべき紅海もない。そして何よりも、キリスト教の救世主の到来を予言する預言もない。
イザヤが語る少女は処女ではないし、名前もマリアではない。
それゆえ、伝統全体が『盗用』されたと言えるのだろうか?巧妙に湾曲し、都合良く脚色し、非ユダヤ人が信仰する新しいカルトを、実質的に何もないところからでっち上げたのだろうか?
遠くから、そしてある程度の距離を置いて、マウロ・ビグリーノは聖書が宗教書として『不適切に』使用されていることを観察している。
どの聖書?ユダヤ人の聖書か、カトリック教徒の聖書か?コプト教徒の聖書か、それともサマリア人の聖書か?
この小さな問題は常にあった:一般に『聖書』と呼ばれるこの非常に有名な古文書集は、決して同じではない。時間とともに、また空間とともに、聖書は常に変化してきたのである。
ビグリーノは、「聖書は、その活動を指揮する人々の宗教的思想の流れによって、異なった構成になる」と説明する。
本物のモザイク画のように、場所によって異なるタイルでできている。
「キリスト教の聖書は旧約聖書と新約聖書からなる。旧約聖書は基本的にマソラ聖書のテキストを参照している。マソラ聖書は中世までティベリア学派のマソラ聖書学者たちによって継続的に改訂された聖書であり、一方、新約聖書は明らかにキリスト教の環境で作成されたものだ。」
キリスト教聖書の旧約聖書がヘブライ語聖書の旧約聖書と異なるのは、何よりも正典とされる書物の数、つまり信じなければならない書物の数である。
キリスト教の正典はヘブライ語の正典の2倍近くあり、その構成も異なっている。
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単に『聖書』と言うのは早計だ。
「ヘブライ語正典には、トーラー、いわゆる五書、預言者の書、そして最後に単純な書物が含まれている。」
その違いは非常に重要だ。
「たとえばダニエル書。キリスト教徒にとっては預言書であるが、ユダヤ教徒にとっては単純な書物に属する。」
そして、キリスト教正教徒もいる。
「本質的に、彼らは『70年版』、つまり紀元前3世紀にエジプトでギリシャ語で書き直された聖書を参照している。」
問題:「ユダヤ人はこの聖書を完全に偽書と見なしている。彼らは七十人訳聖書を一種の災難、つまり多くの誤訳の寄せ集めと見なしており、その元となったヘブライ語テキストにはない精神的概念を恣意的に導入している箇所が多い。コプト正教会に関しては、基本的にユダヤ教の正典を参照しているが、いくつかの重要な違いがある。彼らは、ユダヤ教徒にとってもローマ・キリスト教徒にとっても正典ではない特定の書物を「真実」とみなしている。
サマリア人は別のケースである。彼らは旧約聖書の最初の6冊だけを正典とみなしており、サマリア人の聖書では、ユダヤ教の正典に収められている同じ書物と比べて、この6冊には約2,000の異本がある。」
ここで、まさにサマリア人こそが自分たちを「律法の番人」、真の正統派だと考えていることに注目してほしい。
この話の教訓は?
「単純だ:わたしたちが『真実』と信じる聖書は、わたしたちがどこで生まれたかによって決まる。すべての信者は、どの書物を信じ、どの書物を偽典と見なすべきかを、誰かに教えられているのだ。」
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聖書と呼ぶには早すぎる: 聖書の不確かな歴史-2へ続く**********************************************************