記事一覧
修士論文の発表も全て終えたので、そろそろ、復帰したいと思います…今まで少し固い話が多かったので今後は気楽にゆるやかにいきたいと思います…
拾われるかもしれない断片たち
注:これはまだ、思考になっていない思考以前の断片集です。だらだらと読んでいただけると嬉しいです。
7月某日
レッドアロー号に乗って秩父から帰る。秩父にはよく行く。単に秩父の街並みが好きだということもあるが、研究も兼ねていく。その日も、フィールドワークっぽいことをした気になって、帰る。西武池袋線は、飯能を過ぎたあたりから住宅街になってくる。レッドアロー号から窓の外を見る。夕陽が家の屋根を照らし
柄にもなく、固いことを書いてしまったので、次の投稿は緩めのものにします
憑依する、その前に…(2)
注:今回は、前回の投稿の続きです。また、今回も多少デリケートな内容を含みます。ご注意ください。ざっと内容を読むのであれば、太字を中心に読んでいただければ幸いです。
前回の投稿では、共感の特性である「情動的共感」、人間の思考システムについて心理学に知見などを借りながら考えた。
少し前回を振り返る。共感には、他人が経験している(と思われる)ことを自分も経験してしまう「情動的共感」と相手がどのよ
憑依する、その前に…(1)
注:お久しぶりです。最近かなり忙しくて、ノートを書けませんでした。今回と次回は多少デリケートな内容を含みます。ご注意ください。ざっと内容を読むのであれば、太字を中心に読んでいただければ幸いです。
その日、僕は友人数名と居酒屋にいた。学生ということもあり、格安居酒屋しか利用できず、あちこちで大きな声が飛び交う中でお酒を楽しんでいた。その時、僕たちの隣のテーブルで飲んでいた一人の若者が語気を強め、
こんばんは。少し研究やらなんやらに追われてここひと月ぐらい何にもできない状態でした。また、ぼちぼちノートを再開しようかなと思うので、もしよろしければ…
なんで笑っちゃうんだろう?−歴史編−
(注:前回の投稿から間が空いてしまいました…申し訳ありません…また、少しばかり長くかつぐちゃぐちゃなので、だらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです。)
前回の投稿では、笑いの認知心理学的な側面として、「スキーマ」と「スクリプト」という視点から論じた。
今回は少し離れて、1990年代からのお笑いに関するごく私的な歴史について述べたい。
なぜ、1990年代か?一つは、1980年代の漫才
「匂い」はつまらない日常をハッキングする
(注:例にも漏れず、長いのでだらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです…)
今年の夏。僕は、新潟にいた。お目当ては越後妻有トリエンナーレ。各地に点在する現代アートを1泊2日で見て回った。
その中で、僕が一番胸を揺さぶられたのは、フランスの芸術家クリスチャン・ボルタンスキーの『最後の教室』というインスタレーションだ。
この作品は、廃校になった旧東川小学校を丸々作品に変えたものであ
「身体」はどこに行く?
(注:例にも漏れず、長いのでだらだら読むか、太字だけ読んでいただければ幸いです…)
東京の夜の街を歩く。街には夜遅くまで多くの人たちが行き交う。身体にタトゥーを入れている人やピアスを開けた人が横目を過ぎる。かたや、インスタグラムやツイッターに載せるために自分の身体と流行りの商品を画角に収めようとポージングを繰り返す人たちがいる。
街には、いろんな「身体」のあり方がある。言うまでもなく「身体
「ぎこちなさ」をめぐる10年代
(注:少し長いので、だらだら読んでいただくか、太字だけ読んでいただければ幸いです。)
2018年ももう終わる。平成がもう少しで終わり、再来年には誰が望んでるかわからないオリンピックが待っている。もうすぐ10年代が終わってしまう。
23歳のぼくにとって、10年代は何か「ぎこちない」ものに映った。「居心地の悪さ」などでは決してなく、「ぎこちなさ」なのだ。そして、ぼくは「ぎこちなさ」を快感とし、