記号の果てにー千葉県銚子ー
9月上旬。夏の暑さがまだ去らない日。僕は、電車で都心から2時間以上かけて、千葉県銚子市に向かっていた。車窓から見える風景は、都心から離れるにつれ、緑に変わっていく。それと対称的に、黄金色の稲穂が揺れていた。
銚子駅についた。休日だが、駅前は物静かだった。まるで自分以外がいないような感覚になる。空は嫌という程の快晴。駅前の観光案内所で、パンフレットをもらう。あてどなく、海の方向に歩を進める。
銚子は、千葉県の東端にあり、日本でも有数の水揚げ量を誇る港町だ。港町というと、何か騒がしいイメージがあるが、本当に静かな街だ。
港の近くで昼食を食べた。とても広いお店で、店には僕らだけだった。店主は手際よく、名物だといういわしフライを作ってくれた。東京では、確実に1000円を超えるだろう。イワシフライは、とてもサクサクとしており、中の身は臭みもなくふっくらとしていた。僕がご飯を食べている時、店主はのんびりとテレビを見ていた。店内には猫がうろついていた。どうやら、人懐っこい性格ではないようだ。
昼食後、どこに行こうか考えていた。隣のタバコ屋のベンチには、おばあさんがいた。おばあさんは、汗をぬぐいながら海の方向を眺めていた。
銚子には犬吠崎という有名な灯台があるが、そこに行きたくなって、のろのろと向かって行く。商店街のような場所を歩く。チェーン店などはほとんどない。街には、見たことない店名の店が並ぶ。ただ、営業しているお店は少ない。
かつては、この街も経済成長の波に乗った時代があったのだろう。ノスタルジックな気分になる。この街には、多くの記号の痕跡がある。かつては、スペクタクルな装飾にあしらわれたであろう看板たちは、今や、ただそこにあるだけの存在として残っている。
寄り道しながら犬吠崎に向かう。海沿いを歩く。海沿いといっても、浜辺があるわけではない。ただ、堤防がある。歩いて行くにつれ、匂いがする。それは、都心のようなビルの室外機や車の排気ガスの匂いではない。おそらく出荷するであろう魚の匂いと、そこで暮らす猫や犬などの動物たちの匂いだ。そして、潮の香りだ。これら全ては、生活の匂いなのだ。
犬吠崎に着く。灯台の上からは、壮大な海が見える。太陽を照り返すその海面は、見つめている僕をまるで見つめ返すようだった。どこか涼しげな風が吹く。
駅に向かう途中に、廃墟の商業施設を見つけた。レストランやおみやげ物屋があったであろうその建物は、太陽の光に当てられているため、影がよりくっきりとしていた。入り口には、その施設のマスコットキャラクターだったと思われる恐竜の子供が、犬吠崎の方を見つめていた。
駅に行く。駅は畑の中に忽然と現れた。駅前には広場がある。少し、開放感を感じる。時間になる。駅には、特徴的な配色の銚子電鉄が来る。もう時刻は夕方だ。
僕らの生活は多くの記号のネットワークに囲まれている。街の広告、繁華街のショーケース、街ゆく人々のきらびやかなファッション、インターネット上のコンテンツ…僕らは記号に浸りきってしまっている。あたかも、記号という外部のものをあたかも自分の一部のように扱っている。
しかし、記号の前には、物質と身体性を持った僕らの生活がある。僕らはそのことを忘れているようだ。銚子の街には、記号の果てがある。そこには、生活がある。記号のネットワークは取り剥がされ、残ったものは、ただそこにあるものとして僕らに対峙する。ただそこにあるもの。解釈をされないもの。ネットワークから離脱するもの。それが生活と身体という非常に物質的なものなのだ。そこに、人間の生がある。そこから、始まるのだ。
押見修造『惡の華』(11巻)にこんなシーンがある。主人公・春日高男と恋人・常盤文が、仲村佐和と銚子で邂逅するシーンだ。仲村は、かつて春日と共に青春に苦悩しもがごうとしたが、試みが失敗に終わり、数年間会っていなかった。
仲村は、銚子の海辺に立ち、夕日を指し、このように言った。「見て。もうじき日が沈む。この町は海の中に日が沈むの。それでまた、あっちの海から日が昇る。ずーっと、ずーっと。ぐるぐる、ぐるぐる。キレイ…でしょ?」
夕刻に銚子を後にするとき、車窓から見える夕日は、何かの終わりと始まりを予感させるようなものだった…
#エッセイ #旅行記 #銚子 #犬吠崎 #海 #記号 #惡の華