字が読めない (月曜日の図書館197)
今年度から異動してきたS崎さんが、目がすごく乾燥すると言う。この係に来た者のさだめ、みんな一度は体調を崩す。窓がない上に古い本ばかりを扱うせいだ。ページをめくるたび、ほこりが、カビが、得体の知れない菌が、空中にきらきら舞い上がっていることだろう。
わたしのときは気管支をやられた。半年くらい、咳が止まらなくなった。結核じゃないの、と何の感慨もなくN本さんが言った。
体調不良は通過儀礼のようなもので、回復した後は免疫ができるらしく、同じ症状になることはない。
おそらくS崎さんは目の水分を紙に奪い取られているのだろう。体が順応していけば、やがては潤いを取り戻すはずだ。
テレビ番組の制作会社から連絡があり、図書館にある和装本の紹介をしているところを撮影させてほしいと言う。ありがちな依頼だが、司書は学芸員とは違うので、資料の中身を「自分の言葉で」説明することはできない。ついでに言うと、くずし字の判読もお断りしている。
そう伝えると、じゃあ、なんか学者の人とかといっしょに行って説明してもらうんで、資料のご用意だけおねがいします、と言う。軽い。学者の手配ってそんなに簡単なのか。
くずし字は読めたらかっこいいと思うが、くずし字講座を受けようと年に5回くらい思って、思うだけで結局いつも習わない。
だいたい、好きなのはあのにょろにょろした形なのだ。意味がわかるようになってしまったら、今まで純粋にとらえていた造形的な美しさがすり抜けていく気がする。
意味がわからない方がいいこともある。藩士の日記にニコニコしながら追いかけっこをする人々のイラストが描かれていて仕事でやらかしたときなどそれを見てほっこりしていたのだが、実際は大きな地震が起きて逃げまどっている様子だった。
昔の絵の中の人々は、どうして苦しいときも笑っているのだろう。
カビやほこりをまき散らしながらも、紙の本は何百年経っても読むことができる。それに比べて他の媒体はといえば、とても心許ない。
マイクロフィルムは溶けかかっているし、デジタルデータだって、いつかイーロンマスクの親玉みたいな人が気まぐれにネット空間を閉鎖してしまったら、簡単に見られなくなってしまう。
TwitterからXに変わろうとしていた時期、市のFree Wi-Fiにアカウントでログインできなくなった。一時的にではあったものの、改めて、このサービスは公共のものではなく、誰かが好きでやってるにすぎないということを実感した。
いつまでも続くとはかぎらない。いつだって急になくなる可能性がある。それなのに、公式アカウントでいいね!を集めるために仕事の時間をたくさん割いて映える写真と刺さる文章をひねりだすのは、なんだか滑稽な気がする。
次に乗っからないといけない波は、どんな形だろう。
カードを作りに来た人が、字がめちゃくちゃ汚くて、申込書が判読できない。一周まわってくずし字のようになっている。運転免許証を穴が開くほど見つめながら登録した。
毎日たくさんの申込書を受け付けているが、圧倒的に字が汚い人が多い。こんなに汚くてもたくさんの人がそこそこ楽しげに生きていることに希望を感じる。
とめとはらいを異常に注意して書かされた小学生の日々よ、さようなら。
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