目に見えるものだけ (月曜日の図書館218)
今年は異動になる、という予感があったので、年明けから少しずつ身辺整理をしていた。わたしは基本的に誠実な人間だし、正直に仕事をすることが結局は自分のためにも一番良い、という心情なので、闇に葬らなければいけない書類などはない。
問題は机の中の大半を占める、私物だ。「自分の心を守るため」「家じゃ使わないから職場で」などと理由をつけて折に触れ持ち込んだ私物が、どの引き出しにもぎっしり詰まっている。そもそも机に置いている書類ケースからして備え付けのものではない。この係に越してきたとき、あなたの席の分はない、と言われて買った。
当初は必需品だと思ったのだ。仕事の種類ごとにケースで仕分ければ、すっきり片付くし、効率も良いと思っていた。
ところがふたを開けてみれば、ほとんど使わなかった。忘れないためには、机の上にどちゃっと広げ、常に目に入るようにしておくのが一番良い、ということがわかったのだ。結局買うだけ買って片付けられない、便利グッズあるあるみたいな状態をキープして10年が経ってしまった。
意外だった。図書館には極端に潔癖な人と、片付けられない人がいて、新人の頃の自分は前者だと思っていた。分類して、仕分けて、それぞれの場所にしまう。きれいな机にうっとりしながら、締切をすっぽかしたり、100部間違えて発注したりしていた。
どうやら自分は、視界に入るもののことしか認識できないらしい。まるで「いないいないばあ」で喜ぶ赤ちゃんのようだ。彼らは目に見えるものしか「ここに存在している」とわからないので、大好きな人が一瞬消え、不安になったところで再び現れることに、安心感と喜びを見出すそうだ。
認知機能が赤ちゃんのままなら、方法を変えざるを得ない。書類が積み重なった机は不快だし、見る度に「あるべき場所に片付いていない」ことに焦燥感を覚えるが、やらなければならないタスクの全容が一目瞭然なので、ミスは格段に減った。
そうか、汚い机の先輩たちも、きっと同じ気持ちなんだ。
かくして机の引き出しや書類ケースは、緊急性の低い私物で占拠されることになった。開ける度に、いつしまったかも覚えていないものが次々に顔を出す。
デザインの参考にしようと思ってどこからかもらってきたチラシ、個人的には良いと思ったが児童担当のおめがねにかなわず図書館では発注してもらえなかった絵本、どこかで拾ったビー玉、どんぐり、パチンコ(?)の玉。
なにせすっかり忘れていたので、宝物を見つけたみたいにうれしい。普段は忘れていても、それらはまぎれもなくわたしが選び、良いと思って持ってきたものなのだ。それも、10年かけて集めたものといえば、なかなか圧倒されるような厚みがある。
それらを寄せ集めて、これがわたしです、と言っても通じるような。
大きなエコバッグを持参して、毎日少しずつ持ち帰った。新しい職場に、また持っていくものもあるだろうし、そのまま家に置いたり、捨てたりするものもあるだろう。異動先で新たに加えるものだってあるはずだ。
全部でわたし、だったものを一度解体し、再構築する。職場を異動することは、単なる場所の変化以上のものをわたしにもたらすだろう。
最終日の机はすっかりきれいになり、置いてあるのは、次にこの席に座る人が送ってきた書類と、同僚がくれたお別れのお菓子だけだ。特に後輩たちは若いので、わたしの消化能力のことなど意に介さず、全力でカロリーたっぷりの焼き菓子を贈ってくれた。
新しい職場に行ったら、しばらくはこのお菓子を食べつないで心の栄養にしよう。そしてこのお菓子が尽きたころから、徐々に新しいわたしを積み直しはじめよう。