本に書いてあることは正しいという自動マインドセットを辞める
本に書いてあることは正しい。
絶対的にそう、とは言えないにせよ、
「本に書いてあるんだから、あながち間違いではないだろう」
これくらいには思っている人が多いのではないかと思います。
出版できているほどの人なんだから、ある程度の市民権は得ているはず。
ほら、有名な大学の教授みたいだし。
以前と比べて、今は本を出版する、ということのハードルがとても低くなっています。
出版社の数も星の数ほどありますし、
大手出版社からマイナー出版社、名前からして怪しい出版社など千差万別です。
自費出版も以前と比べて確実に容易になりました。
特に電子書籍となると、そのハードルも低くなっています。
気軽に自分の考えを形にして多くの見知らぬ人に触れてもらえるようになった、と言えば聞こえは良いですが、
その分眉唾物の本も増えたと言わざるを得ないのが現状でしょう。
なにが言いたいかというと、
メディアやネットだけでなく、
本にもリテラシーが求められている、ということです。
メディアやネットの上に転がっている情報に対しては、ある程度の「怪しさ」を持って接している人が多いでしょうが、
こと本として形になってしまうとどうでしょうか。
自由に書き込みができたりするネットと違って、
出版となるといくつかの審査を、人の目を通って来てるはずだから、
大丈夫だろう、と。
その理屈は、出版のハードルが低くなったことにより、根拠が弱いものになっています。
そもそも、今のような状況になる以前から、
「本に載ってる=正しい」なんて方程式は存在しません。
それは古今東西変わらぬ事実と思うのです。
しかし、なんでもかんでも疑ってかかるのでは疲れてしまいますし、
何を信じていいのかわからなくなってしまいますよね。
僕が皆さんに提唱したいのは、
本に書かれていることに賛同するときは、
「その人の人格そのものに賛同するのではなく、その人のその考えのみに賛同する」
という姿勢です。
この人良いこと書くなあ、は
この人の書いていることは全て正しい、この人は良い人だ、
にはなり得ませんし、
逆に、この人の書いていることは賛同しかねる、
だからこの人は悪人だ、なんてことにもなりませんよね。
あくまでその人の人格と、その人の展開する論は、一旦分けて考える。
すると、この人は多分悪い人ではなかろうし、
むしろとても良い人なのであろうけれど、
この本に描かれているこの論には賛同しかねるなあ、といった、
偏りの無いおおらかな、ゆとりのある気持ちで構えていることができます。
この話は、〇〇大学の☓☓教授の研究によると、
といったことにも言えます。
これは一見正しく強いエビデンスだと思いがちです。
しかし、いくら有名な大学の教授が研究した結果だからといって、
それで正しいと言える、なんてことはありません。
実験や研究を行った年代や年齢層、男女比や人数、追試を行ったか否か、その上である程度再現性があると確認されたものなのか、そしてグラフや表の見せ方など、
これらは研究をする側、そして報道するメディアや出版する会社や著者の意図によって、
いくらでも読者を「こう思わせたい」という方向に誘導することができます。
特にグラフなんかは要注意ですよね。
グラフを提示されると、ここ5年間で犯罪件数がこんなに増えてますよ、などと危機をあおることができます。
グラフとその説明だけ聞くと、説得力があるように思えてきますが、
5年だと急激に増えているように見えたデータが、10年、20年と範囲を広げていくと、ほぼ横ばいだったりもしますし、
〇〇件数と〇〇率でも話は変わってきますよね。
ですので、私たち読者にとって大事なのは、
その文章の中にある、「正しさ」を理解しようとするのではなく、
著者が読者に「どう思わせたいのか」を読み取る、という姿勢です。
その上で、心の中で
「僕はそう思わないけどね」
「私はこう思うけどなあ」と呟いてみる。
それが、本に書いてあること=それなりに正しいはずだ、というマインドから解き放たれる入り口になるはずです。
本にこう書いてあったからこうしてみよう。
この考え方は、結局自分の軸を持たない人間を作り上げてしまうだけです。
「この本にはこう書いてあって、部分的には賛同するけれども、この箇所には賛同しかねる。私はこう思う」
というマインドが、「自分」を形成していくのだと思います。
あなたもぜひ、本を読みながら心の中で呟いてみてください。
「私はこう思う」と。
小野トロ
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