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いじめ=弱い者いじめは時代遅れ?

いじめ=弱いものいじめ。

もし、こう思っている方がまだいるならば、
それは時代遅れです。

ジャイアンがのび太をいじめる時代はもうとっくに終わっています。

強い者が弱い者をいじめる、といじめについて捉えていると、
解決なんてできません。

のび太はタイマン、つまり1vs1で戦ってジャイアンに勝つことはできません。
しかし、スネ夫やしずかちゃん、出木杉くんなど、複数人やクラス全体などで、
強い者をいじめることはできます。

ジャイアンが「デブの音痴」としていじめられる世界線も、充分にありえるわけです。

いじめは異分子を排除する人間の本能にも関わってきます。

自分と似たような人に囲まれて生きていくほうが人間の本能においては心地よいとされます。

しかし、長い目で見れば、多様性のあるコミュニティ、凸凹のあるコミュニティのほうが、
持続可能性は大きく高まります。

弱いものが強いものにいじめられるのがいじめではなく、

極端なものがいじめられるのです。

極端に優れているか、極端に劣っている。
優劣で言うと話が複雑になってしまいますが、
要するに普通、というものから大きく外れている者がいじめられるのです。

しかし、ここで注意しておくべきことは、
その「異分子」という定義は如何様にも変容していく、ということです。

見た目が極端に普通とは違う。
考え方や性格が明らかに普通とは違う。
だからいじめられる。
普通の枠の中に収まっていれば大丈夫。

そんなことはありません。
「普通」と「異分子」の定義は、集団のボス的位置にいるいわゆる「スクールカースト」上位にいるものたちや、
クラス全体の空気などによって、
変幻自在にその姿を変えます。

つまりは誰でも標的になりうるのです。
基準がいつ変わるかわからないので当然です。
確固たる基準がわかっていれば、普通の枠に収まって飛び出なければいじめらることはありません。

しかし、基準が変わるのではどうしようもない。
なので、子どもたちは、いつ自分が標的になるかわからず怯えながらも、平気で仲の良い友達を生贄に差し出したりするのです。

ですが、これは学校社会に顕著なだけで、
大人の社会でも同じことはあると思います。

学校というより閉じられた空間、かつ多感な時期、視野が狭いなどのこともあり、
特に強いいじめに発展するということでしょう。

なぜいじめが起こるか、ということがわかっていないと、防ぐことはなかなかに難しくなってきます。

そこに「悪い子」がいるからいじめが起こるわけではありません。

子どもも大人も、そのメカニズムは、
「ストレス」だと思います。

日々のストレス、抑圧された感情、満たされない何かによっていじめの動機はもたらされる。

フロイトの言う抑圧されたものの回帰です。

家庭で、勉強で、部活で、どこかで抑圧されたものは、どこかで誰かが、何かでガス抜きをしなければ、
手で抑えた風船と一緒で、
どこかが凹んだらどこかが飛び出るのです。

家庭やその他外部によってもたらされた内面の葛藤は、
解放できる場所がなければ、それがいじめなどに発露することがあります。

ですので、いじめや非行などは、問題そのものというよりも、
その子の出しているヘルプ、病原菌と戦っている時の発熱のようなもので、

ある種必要悪ではあるのです。

ですが、こう言うといじめを擁護するのか、容認するのか、と言われるでしょう。

だから、一線は絶対に必要なのです。

ひどい暴力や自殺につながる無視や誹謗中傷など、一定の超えてはいけないラインを大人が設定し、それを超えることがあればしっかりと叱るべきです。

昔は「いじめはダメ!」と言っても大人と比べて子どもが多いか同じくらいいれば、
そこまで手は回りません。
多少のいじめや喧嘩は容認されていた。

しかし、今は管理できてしまう。

そのことによって、いじめは問答無用で絶対NGということになってしまう。

それによって、子どもからしたら「なんだか理由はよくわからないけどとりあえずいじめは良くないらしい」
という認識しか生まれず、

許される諍いや喧嘩の中で自ら肌感覚で、超えてはいけない一線を見極めていく、という学習の機会が無くなってしまう。

いじめはダメです。
それは当たり前です。

ですが、なぜダメで、これ以上はしないでおこう、としっかりと理解するためには、
身を以て、取り返しのつく「悪事」には手を染めないといけない。

なのに、今は子どもが少ないので、大人によって管理が可能になってしまう。

そのため、必要な友達との干渉や葛藤、諍いを経験することなく、
管理されている中で鬱屈した感情は行き場を失い、

結果的にそれがいじめを生んでしまう。

そして、超えてはいけない一線、という話で言うならば、
暴行や誹謗中傷と、いじめは分けるべきです。

いま頻繁に報じられるものは、いじめではありません。
犯罪です。

いじめが犯罪なのではありません。
昨今センセーショナルに報じられる「いじめ」は完全に一線を越えたもので、
いじめではなく犯罪です。

それでは、論の帰結として、今私たち大人にできることは何か。

それは、いじめられる側のケアはもちろんなのですが、
いじめる側のケアをすることです。

そして、どこからいじめを動機付ける感情がやってくるのか、
それをやっつけるためにはどうすればいいかを考えることです。

考えずとも、答えはすぐそこに見えていると思います。

教え、管理する教育から、

自ら考える環境を作り、干渉せず見守る教育に舵を切ることだと思います。

これについては別の記事でまた書いていきたいと思います。

それではまた。


小野トロ

以前の記事へはコチラからどうぞ。




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