「考える」の本質
考える→かんがふ→かむかふ→かむかう→彼に向かう→身交う→彼と身を交わす
一見してこれが何のことだかわかる人はきっといないでしょう。
鷲田清一さんの本の中に出てきた話で
「考えるという行為は自己の内面だけに閉ざされたものではなく、対象を必要とする」というものがありました。
皆さんは、考えると聞くとどんなイメージを持たれるでしょうか。
「考える人」という有名な像があるように、難しい顔をして1人で考える。
難しい顔をして。
じっと黙り込んで。
そんなイメージでしょうか。
ともかく「自己の内面に深く沈み込み、内面でじっくり耽るもの」というイメージが強いのではないでしょうか。
ここで鷲田さんのお話に移ります。
鷲田さん曰く「考える」という行為は相互的なものであり、何らかの対象を必要とする行為だということです。
著書の中でそのことを丁寧に説明してくれています。
まず、考えるという言葉は「かんがふ」であった。
昔の仮名遣いや高校古典の記憶がまだ残っている方はおわかりかと思いますが、
「ん」は「む」になりますね。
つまり「かむかふ」であったと。
そして「ふ」は「う」と読みます。
ここで「かむかう」となる。
ここに漢字を当ててみる。
「彼向かう」
ここで言う「彼」とはheではなく、此岸と彼岸の「彼」です。
つまりthatです。
此方側とあちら側。
彼向かう=あちら側に向かう、となるわけです。
そしてここから更に飛躍があり、
「かむかう」の「むかう」には「向かう」と共に「身交う」という意味があり、
「身を交わす」になる。
つまり「彼と身を交わす」で「彼身交う」。
なんだかワケがわからなくなってきましたね。
しかし、言いたいことはなんとなくわかってもらえたでしょうか。
考えるという行為は、
何らかの対象(彼、that)と身を交わして成す行為だということです。
その対象と相対して、お互いの領域まで入り込んで、身を交わすのです。
一方的な能動でも受動でも無い。
「交わす」という漢字のバッテンにあるように、交差させるわけです。
決して自己のみで完結するものではない。
相互的な営みだということです。
それは決して人間のみが対象というわけではなく、あらゆる生物、事物、
つまりは考え得る全てのもの。
それらを対象に、けっして自己の内面に引きこもってうんうん唸ってする行為ではないということです。
受動的ではなく、能動的な行いなのです。
こうして考えてみると当たり前のことのように思えますが。
対象の存在しない「考える」なんてありえないですもんね。
ただの言葉遊びに思える方もいるでしょうが、
たかが言葉遊び。されど言葉遊び。
言葉遊び、侮ることなかれ。
今日は「考える」という行為についてのお話でした。
小野トロ
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