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共に食べることの大切さ

食育という言葉があります。

孤食という問題が存在します。

しかし、僕はそれをあまり大きな問題だと思ってきませんでした。

というのも、食育によって得られるものは「感覚」の機微や、家族の温もりで、
孤食は寂しさや孤独感を生むという、
それだけを表面的に捉えていたからです。

けれど、「共に食べる」という行為はそれ以上に大きな意味を持つことを、
恥ずかしながら最近知りました。

鷲田清一さんの『「聴く」ことの力』という本から学びました。

鷲田さん曰く、

光景を見る
物を触る
匂いをかぐ
音を聞く

これらは共有が容易だが、味覚は共有が難しい。

万人に美味しいと言われる名料理はあるかもしれませんが、それぞれに感じるものは違うし、共有はほぼ不可能である。

美味しそうな顔を見ることはできるけれど、全てを共有することはできない。

もちろん光景や触った感覚や音、匂いも人それぞれ微妙に異なるでしょうが、だいたい同じはずです。

ウンコの匂いを嗅いで「あ〜、良い匂い」と言う人はいないでしょう。

それに比べて食べることは、どうしても推測に頼らざるを得ない。
「どう?美味しい?」と聞いて確かめることはできても、共有はできない。

そしてコミュニケーションが必要である。

同じことを「見る」ならば知り合いである必要は無いし、同じ場に居合わせるだけで良い。

そこにコミュニケーションは必要ありません。

共に食事をすることには、そういった意味で「推測」つまり推し測る力が求められる。

ここに孤食の1番の原因があると思います。

誰かとともに食事をするという行為は、相手の仕草や表情の機微を感じ取り、
そこから相手の感情を慮るという力が必要であり、
それを育んでくれます。

きっと小さい頃からそれが欠けて育った子どもは、他者を思いやることができないと言えば言いすぎかもしれませんが、
他者の心を推測するという経験の絶対数は少なくなるはずです。

目の前の人は
「美味しい」
「まずい」
「濃い」
「薄い」
「辛い」
「酸っぱい」
「甘い」
「苦い」

どう思っているのかな?
それを推測する経験が、きっと心を豊かにしていく。

「美味しい話ですね」
「濃い経験」
「人間関係が薄い」
「辛酸を舐める」
「甘い恋」
「苦い経験」

偶然でしょうか。
味覚にまつわる言葉は何故か、心や人生における出来事を表す言葉に頻繁に登場しますね。

小野トロ

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