「心と体は繋がっている」を実感してから、自分の感覚を大切にできるようになったんだ。
誰かに向けて、言葉を綴る。
そろそろ私も、そのような想いを込めて、noteをはじめ、SNSの発信をしていこうと思っていた。
ただ、どうしても今は、思うがままに手を走らせたい。
この衝動を抑えることはできなかった。
「いいよ。思うがままに、書いていいよ。」
私は、私に許可を出した。
脳内での自己対話であるにもかかわらず、なんだか嬉しくて、自然と口角があがっていた。
正座していた足とおしりはリズミカルに横に揺れ出し、好きなように書ける喜びを表現しているようだった。
(体は正直だよなぁ…。)
「ふっ…。」と思わず笑ってしまった。
自分はなんて単純な生き物なんだ。
誰もいないリビングでパソコンの前にひとり座り、カタカタとこの記事を書いている。
声を発することもなく、浮かんでくる言葉をただ打っているだけなのに、気分によって口角が上がったり、体がひとりでに揺れるのだ。
「心と体は繋がっている」とはよく言ったものだが、どうやら本当らしい。
今振り返ってみたら、ここ数年は「心と体が繋がっている」を実感し、検証していたとも思える。
それほどに、自分の感覚、感情、体感、体の反応、思考の癖、言葉をよーく観察してきたのだ。
そして、最近では、自分の感情と表情が一致してきたように思えている。
数ヶ月前までは、感情と表情が一致しなかったり、言葉と体の反応がちぐはぐだったことも時折あった。
例えば、相手の言った言葉に対して、「表情は笑っているけれど傷ついて悲しい」と思うこともあった。言い換えれば、「内心は悲しいけれど、表面上は笑顔」という状態で過ごすことが多かったのだ。
また、言葉と体の反応の具体例としては、「ありがとう!」と言葉では伝えていても、左手がぎゅっと強く握られたままだったこともある。御礼を伝えたい気持ちも嘘ではないが、何か本当は言いたいことを我慢していたのだろう。左手はてのひらに爪の痕がつくほどに強く握られていたのだ。
これは、自分の体に意識を向けるようになってから気付けた一例だ。
きっと過去にも、このような現象は起きていたのだろう。
ただ、意識して自分の心や体に関心を向けていないと見過ごしてしまうことも多い。
しかし、この「自分の心と体の反応を観察する癖」がついてくると、自分の本音、本心というものを客観的に知ることができるようになっていった。
私の場合、自分が納得していない時には、奥歯をかみしめる癖があった。
本当は納得していないけれど、その場の流れとしては意見しない方がいいと思った時や、相手の機嫌を損ねないように気を遣っている時には、まず奥歯を噛みしめるのだ。
逆に、共感したり、受け止めてもらえた安堵感を抱いた時には口元は緩み、奥歯の上下がくっつくことはない。普段、過ごしている中でも奥歯をかみしめるということはあまり無いように思う。(あ!緊張している時には噛みしめることもあるかも!)
「人間の行動から感情が読み取れる」と行動や仕草のパターンから心理を研究する行動心理学なるものがあるけれど、私は「自分の行動心理学」をとにかく探究し続けたのだ。
今この記事を読んでくれているあなたにも、そういった癖や習性はあるだろうか。もし、すぐに思いつくものがあるとしたら、あなたはあなたのことをよく知っているんだなぁと思わず笑みが浮かんでくる。
(もし浮かんだ人がいたら語り合いたい!!!)
話は戻るが、自分の感情と表情が一致してきた近頃では、喜怒哀楽を隠さず表現するようになった。もちろん、時と場合と相手によって変化はするけれど、言われて悲しい言葉に対して笑うことはほぼ無くなった。
また、自分が奥歯を噛みしめているなぁと気付いた時には、「相手を説得するためにはどうしたらいいのか」を考えるよりも前に、まず「なんで私は今、奥歯を噛みしめているのか」の理由を考えるようになった。
相手の言葉に反応しているのか?それとも相手から感じ取る雰囲気に反応しているのか?そこに自分が反応するのはなぜなのだろうか。
言葉では「いいよ」と言っていても、体が「よくない」と教えてくれる。
なぜ「よくない」と思うのか。「よくない」と思っているのに「いいよ」と言うのはなんでなのか。「よくない」と素直に言うとどうなってしまうと思っているのだろうか。「いいよ」と言うことで何を守ろうしているのか。
とても細かい行程に思えるかもしれないが、自分を観察するひとつひとつの積み重ねが「自分を知る」ことに繋がるのだと思う。
そして、自分を観察して自分を知れば知るほど、自分の感覚を大切にするようになった。
「あぁ、嬉しそうだなぁ。」「やっぱり嫌なのね(笑)」「それ好きだねぇ。」
嬉しそうなことはもっと体験させてあげたくなるし、嫌なことや苦しそうなことを我慢せずに過ごすためにはどうしたらよいのか真剣に考える。
まぁ、これは子育てとも通じるのだけれど、好きなだけ与えればいいってもんでもないし、失敗や苦痛の経験を取り除くのがいいとも限らない。子育てをするように、自分について考え、向き合う姿勢を持つことが大切なのだと思う。
子育てだけではない。後輩の育成とか、パートナーとの関係性においても、この姿勢は大切であると私は信じている。
とは言っても、実は「心と体が繋がっている」「自分の感覚を大切にする重要性」を実感しているがゆえに葛藤も起きているのが現状だ。
体が拒否反応を起こしていることに対して、この反応を取り除くために注力するのか、もしくは拒否しなくなるために注力するのか、迷うのだ。
今までの判断基準が「相手の機嫌を損ねないこと」だったため、選択する時にある意味迷わず選べたのだが、今は「自分の感覚を大切にする」が加わったため、そこの葛藤が起きているのだろう。
(いい葛藤だわ。たくさん葛藤したらいいよ。)
だそうです。(笑)
今ふと浮かんだ言葉をそのまま書き残しておこう。
やっぱり今後も、誰かのために書くのではなく、自分の感覚を綴っていこう。
振り返りも、学びも、葛藤も、そのままに。
それが巡り巡って、誰かの心に響いたならその時は喜んじゃおう。
まだまだ書きたいことがたくさんあるのだ。
もったいぶらず、書きたいと感じたこの感覚を大切に、思う存分書き綴ってみようと思う。