[理系による「文学」考察] 川端康成"みづうみ"(1955) ➡変質者による変態幽玄文学...。ここまでくると、川端康成は天才を通り越し、もはや妖怪...。
ゴリゴリ理系にとっては難敵の"川端康成"ですが、考察をうまくまとめられた時の達成感がたまらないので、ちびちび読んでます。
で、分かりました。川端康成は、文学者ではなくアーティストのほうが正確です。そしてただのアーティストではなく、もはや妖怪です…。
そう思った理由の前にまずは、表題の"みづうみ"考察からですが、"変質者による変態幽玄文学"、です。理解しやすいように村上春樹と比較します(村上春樹は明らかに川端康成系譜の作家なのです)。
まずは、主人公ですが、村上春樹に関しては、主人公のサイコパスからの違和感、を下記で考察しましたが、"みづうみ"の主人公も普通の人間が持ち得ている感情が一部欠如しているという定義におけるサイコパスです。
ですが、異なるサイコパスで、村上春樹の主人公は成り行きに巻き込まれる受動的サイコパスとして描かれていますが、"みづうみ"の主人公は自らの欲望に沿う能動的サイコパスで、閾値を超えたアウトな変質者です。よって、"キモさ"よる胸やけを起こしそうになるのですが、川端康成の老獪なテクニックによりうまいこと誤魔化され、吐く(読むのを止める)までには至らないようになっています…
次に、妙に虚ろで現実味がない物語です。村上春樹作品で敢えて言うと"世界の終わりとハードボイルドワンダーランド"が、虚ろさ、という意味では伝わりやすいかなと思います。"みづうみ"も場面が行ったり来たりするので虚ろな文学なのですが、村上春樹とは質が違っており、何かから得た感覚に似ているな~と思いめぐらせてみたところ、"能"、でした。
具体的に、"みづうみ"を読んでいると、なんだか眠くなるのです。理由は、文章のリズムがどうも単調で、"能"の前半から中盤にかけて眠くなるあのリズムとどうも似ているのです(あくまで個人の感想です)。が、要所要所で目の覚める鋭い表現を入れてくるので、寝落ちすることなく、半分寝ていて半分起きているのと近しい状態になり、まさに"能"で得られる"現実と虚実の間でぐるぐるする感覚"になります。また、"みづうみ"自体の物語も、現実だか虚実だか分からない状態をぐるぐるするので、文章と個人の感覚がシンクロして、なんとも幽玄な作品になっています。
というわけで、川端康成は、絵画だけでなく、能まで文学で実現できる希代の天才であり、もやは文学者ではなくアーティストなのです!
と、絶賛で終わりたいのですが、なぜに敢えて変質者による変態文学にする…。というわけで、冒頭に”妖怪"と表現しました。
上記の理由で、個人的に人間としての川端康成本人はあまり好きではないのですが、妖怪見たさに嫌悪感を抱くのは分かっているがついつい作品を読んでしまう、という状態です。それも含めて、まさにアーティスト…。