ヨルシカのルバートについて考えたこと
ヨルシカのルバートの、主に歌詞についての考察です。
MVが出たら追記するかもしれません。
『ルバート』はアナログ盤、レコードでの販売で、B面にブレーメンが収録されています。
ルバート(rubato)はイタリア語で盗まれたという意味なので、
『ブレーメンの音楽隊』の動物達が泥棒の家を奪うことを連想しました。
「当てのない旅をずっと続けていたわ」はブレーメンへの動物達の旅、
タヒ(死)から逃れるタビ(旅)でもあるのかなと。
生き続けるには、他の命を奪って食べる必要があります。
泥棒から更に奪うように、盗みの連鎖が生きる事、当てのない旅を続ける事なのかもしれません。
ブレーメンが収録されていた音楽画集『幻燈』はスマホでしか聴けない仕様で、スマホは自由な時間を奪いがちです。
ルバートをレコードで出す事は、スマホ(時間を盗む物)の逆、盗まれた自由な時間を取り戻すって意図もあるのかなと。
アナログに戻ろう、動物(馬鹿)に戻って踊ろう(踊る動物)とも思えます。
人間を「忘れようとしている」、
「お日様とのダカーポ」で動物だった(お日様の下で生きてた)頃に戻ると。
ルバートは音楽用語で自由なテンポで演奏するという意味で、
ブレーメン「身体は無彩色 レイドバック」を連想します。
(レイドバックも音楽用語で、のんびりした、という意味があります)
ルバートのジャケット絵の女性の服は黒色、無彩色です。
喪服(黒服)で、亡くなったもの(盗まれた時間)と踊ってるのかなと。
ブレーメンMVで考えると、ジャケ絵の女性は左を向いているので生者。
だから喪服(生者の服)で、右手の先には白装束(死者の服)の「あなた」がいるのかもと思いました。
「花が咲く手前みたい」とあります。
ルバートのジャケ絵の女性も、物理的に花の手前だなと。
甬は、つぼみがふくらんださまでもあるらしい(蛹もつぼみに似てる)です。
「ちょっと楽しい 花が咲く手前みたい」は甬(つぼみ)、踊り始めの楽しさでもあるのかなと思いました。
ジャケ絵の花とルバート(盗まれた)から『強盗と花束』を連想しました。
黒服で喪服っぽいのも、「死にゆく貴方に花を上げたい」という歌詞に沿いますし。
ジャケ絵が喪服で踊っている姿なら、お葬式を楽しんでると取れます。
「楽しい」≒他の死 でもあるのかなと。
「楽しい歌」≒他の死の歌
「お葬式の遺影にしましょうこのレコード」の遺影は、遺詠でもあると思いました。レコード=歌 と取れますし。
ブレーメンの音楽隊には雄鶏が出てきます。
ルバートのジャケ絵の女性の頭部が鶏冠に見えました。
鳥頭になろうとしている≒忘れようとしている のかなと。
「私忘れようとしているわ 馬鹿なりにでも愛していたの」
「馬鹿なりに」≒動物なりに≒鳥頭なりに
鶏は三歩歩けば忘れる と言うので、
鳥頭がマーチ(行進曲)に従い歩けば、すぐに忘れて元の状態に戻る(ダカーポ)のかなと思います。
飽きる前に忘れたら、同じ物事でもずっと楽しめます。
「忘れようとしている」のは、楽しみ続け、愛し続ける為なのかなと。
レコードが馬鹿になった(壊れた)、記録が亡くなり忘れたとも取れます。
オンドリと踊りは、語呂が似てます。
「踊るみたいに踊っていた」≒オンドリみたいに踊っていた
ルバートのジャケ絵の女性は、雄鶏の「あなた」を模倣していたのかなと。
(エルマがエイミーを模倣したように)
『神様のダンス』は、エイミーが作った音楽を神様のダンスと表現してます(エルマ特設サイトより)。
オンドリの踊りを模倣する女性≒エイミーの音楽を模倣するエルマ
「神様とのヴィヴァーチェ」≒神様とのダンス と思えます。
「忘れようとしているわ」と「忘れるなんて酷いだろ」、
「楽しい!」と「幸せになんてなるものか」、
「お日様とのダカーポ」「ずっと探していたわ」と「月明かりを探すのだ」は、対になってるのかなと。
ダカーポ(Da Capo)は演奏記号で、曲の冒頭へ戻れという意味です。
「飽きのないもの」≒秋のないもの
「お日様とのダカーポ」≒お日サマーとのダカーポ で、
夏が終わる前へダカーポで戻る、秋が来ないようにしたいのかなと。
「飽きるくらいに回していたのそのレコード」≒季節が巡る
「いつの間にか忘れていくのあのレコード」≒季節が移ろい忘れる
丸い月を齧る≒回る季節を盗む≒飽き(秋)が来ないようにする
ダカーポで楽しい(飽きない)時間を何度も繰り返してるから「楽しい!」を連呼してるのかなと。
「月を見かけた野犬」から、猒(飽きるという意味、厭)を連想しました。
月日の繰り返し(お日様とのダカーポ)に飽きた犬で、猒(月+日+犬)。
厭な気分、もう厭きた(飽きた)のに「楽しい!」を繰り返してるとか。
飽きることは卒業する、成長することでもあると思います。
「ダカーポ」で元に戻るのは、飽きのない代わりに秋へ進めない、夏に取り残される(成長しない)気がしました。
「忘れていくのあのレコード」
≒忘れていくのおのれ鼓動 で、
マーチみたいな「私の鼓動」を忘れる(心臓を亡くす)、いつの間にか己の心の音も亡くしてしまう、と取れます。
record(レコード)の語源は re(再)cord(心) らしいです。
「いつの間にか忘れていくのあのレコード」は何度も再生した心をそれでも亡くしてしまう(忘れてしまう)とか。
ダカーポ(最初に戻る)を繰り返すうちにレコードが擦り切れ聴けなくなる事を、生まれ変わりに喩えてる気がしました。
何度も心を再生するうちに亡くす=何度も生まれ変わる間に別人になる
レコードには記録という意味もあります。
レコードを回す≒記憶を回す で、走馬灯が駆け巡ってるのかなと。
「水を忘れた魚」は、エラ呼吸ができずに苦しいとも、魚から人に進化して(陸に出て)苦しいとも取れます。
「花が咲く手前」≒生まれる前 は楽ですが、胎児(魚)がこの世に生まれた後には苦しみも待ってるから、ダカーポで最初に戻る事が「楽しい」とか。
ブレーメン「息を吸って早く吐いて」はブレスで、ブレーメン≒ブレスメン でもあるのかなと。
「楽していこうぜ」≒一息つこうぜ と取れますし。
ルバートの「ちょっと苦しい 水を忘れた魚みたい」はエラ呼吸できなくて息が苦しい魚みたいに、 一息つけなくて楽できない(≒楽しくない)と。
「水を忘れた魚」は水への心を亡くした魚、
魚心あれば水心になれない、好意に好意を返せず苦しいとも思えます。
「一つ残らず愛していたのに」「忘れようとしている」のを不誠実と感じているように思いました。
ルバートの説明に、「洞察は抜きにして楽観的な思考で楽しむことができる楽曲」とあり、思考停止で楽しめると取れます。
たのしいの連呼は、脳死に掛けてるのかなと。
「楽観的な思考で楽しむことができる楽曲」の中に「楽」を3回も使ってるのが、「楽しい!」を繰り返す歌詞に合っています。
「楽」という字は楽器の象形らしいです。
たのしいも、喜び舞うことから手伸し(たのし)だという説があるので、
「楽しい」は音楽由来の言葉と思えます。
「楽しい!」と繰り返す行為は、とても音楽的なのかなと感じました。
ラスサビの「楽しい!」4回の後の「私」が自然に聴こえるのは、
「た」の「し」い
わ「た」「し」 で、音が似てるからだろうなと。
レコードを飽きるくらい回す→くるくる回す→狂う→楽しい!楽しい!楽しい!楽しい!楽しい! という風にも感じます。
正気を盗まれ、正気を忘れたのかなと。
「洞察は抜きにして」は、
洞を抜く≒空きをなくす≒飽きのないものにする って事かなと。
考える事を辞めて動物に戻れたら、飽きる事もなくいつまでも楽しいのかもしれません。
「神様とのヴィヴァーチェくらい 楽しい!」は、神楽(舞踊)なのかなと。
「踊るみたいに踊っていたの!」とありますし。
神楽は天の岩戸の舞が起源らしいので、天照大神と「お日様とのダカーポ」が繋がる気がしました。
「咲」の右側(关)は笑の変形らしいです。
「ちょっと楽しい 花が咲く手前みたい」は笑う手前ぐらい楽しいのかなと。
「笑」は舞う巫女の象形だという説があるので、
「踊るみたいに踊っていた」、笑うみたいに笑っていたら(笑いを形だけでも模倣したら)心も「楽しい!」気がしてきたとか。
最後の「楽しい」だけ「!」がない≒驚き(感嘆符)がなくなった
驚く心が亡くなった(忘れた)、飽きたのかなと。
「あっと驚くほどに丸い 少し齧ったら駄目かい」
飽きる→「あ」切る→「あっ」という驚きが消える
飽きた→食べてお腹が膨れた(食+包) で齧らなくなるとか。
踊ると驚くは、音が似てます。
「踊るみたいに踊っていたの!」
≒踊るみたいに驚いていたの!
「驚」という字は、馬がおどろきやすいことが由来らしいです。
「馬鹿なりにでも愛していた」、馬だから「!」(驚き)を付けてるとか。
最後に「!」がないのは、馬鹿なりの愛し方をしなくなった、馬鹿(驚き)を装わなくなったのかなと。
「馬鹿を装うのも楽じゃないぜ」とブレーメンにあります。
「!」を付けて驚く(馬鹿を装う)のは疲れます(楽じゃない)。
ルバートの最後の「楽しい」に「!」がないのは、楽な状態で「楽しい」って言うようになったのかなと。
「馬鹿を装うのも楽じゃない」けれど、「楽しい!」のかもしれません。
「踊るみたいに踊っていたの!」
≒踊るみたいに音盗っていたの! とすると、
「…?」は音を盗られた人の音無き声に聞こえます。
「踊るみたいに踊っていたの!」
≒尾盗るみたいに踊っていたの! とすると、
自分の尻尾を盗ろうと踊る=その場で回る で、回るレコードみたいです。
「踊るみたいに踊っていた」、毎日が舞いに近いのかなと。
「月の中を生きる日々」が月日(月光浴)なら、
「お日様とのダカーポ」は日々の繰り返しと思えます。
回るレコード≒巡る日々 の上で、24時間前の自分の踊りを真似るみたいに(一周回って)踊るとか。
「ずれたセンス」の公式サイトの英訳は「offbeat taste」です。
ずれたセンス≒オフビート、ルバート(自由なテンポ)のセンス なのかなと。
「ずれたセンス」≒CDは出さずにレコードで出すセンス
「私忘れようとしているわ」
≒私はズレようとしているわ で、
自ら進んで「ずれたセンス」になろうとしてる気がしました。
「ずれたセンス」は、前世の感覚ぐらいずれてるのかなと。
sense(センス)のsをずらす≒zense(前世)
お前のずれた前世を馬鹿にしてんのさ という。
「お前」は二人称だけでなく、前の人生(前世)も指してるように感じます。
歌詞に「お前」とある曲はおそらく『ブレーメン』『月に吠える』だけで、ルバートに繋がっていそうな2曲なのが面白いです。
もしかしたら前世は馬や鹿や犬などの動物で、「馬鹿にしてんのさ」は文字通りの意味では事実に合ってるのかもしれません。
ブレーメンの「忘れないでいたいよ 身体は無彩色」は白黒写真≒レコードの時代≒前世や動物の時代 を忘れないでいたいとか。
「まだ時間が惜しいの」の「惜」は心+昔、心が昔(レコード)に囚われてるのかなと。
ルバートで記録を「お葬式の遺影」にして過去への愛着を葬る、昔への心を亡くす(忘れようとしている)気もしました。
「お葬式の遺影にしましょう」は、お前のずれたセンスを墓にしてるとか。
ルバートとパレードは語呂が似ていて、
行進曲(マーチ)みたいな鼓動は、行進(パレード)を連想します。
「心があるとするなら君はそこなんだろうから」
「君だけが僕の音楽」
心に音楽(君)で穴が開いたと取れます。
心が君という音楽を鳴らすから、「一人ぼっちのパレード」であり「たった二人だけのマーチ」でもあるのかなと。
ブレーメンという町へのマーチと取れます。
「私の鼓動マーチみたい」
≒私の鼓動町みたい で、私の心臓の町に君が棲んでるのかなと。
「心に穴が空いた その向こう側に君が棲んだ」に繋がりそうです。
「私の鼓動マーチみたい」は、私の太鼓の動作がマーチみたいなのかなと。
マーチングバンドの太鼓のような鼓動だと思えます。
「私の鼓動マーチみたい」は、心の穴をレコードの曲で埋めたと取れます。
盗作(曲)に「父の持つレコード」「僕の物になれば、この穴は埋まるだろうか」とありますし。父のレコードで、乳の穴を埋めたと。
飽きのないもの=空きのないもの を探している、
心に空いた穴を埋めたい(空きをなくしたい)とか。
飽きるくらいレコードを回す≒記録を何度も再生し穴(空き)ができる
思い出を何度も脳内再生すると変形して、元の過去を忘れてしまいます。
繰り返し思い出す事は「忘れようとしている」事に結果的に近いのかなと。
以上です。
お読みいただきありがとうございました。