
#27 妻によし妾にもよし紅葉狩 井月
季節柄、ついつい紅葉の話題になってしまう。
今日は、中華街で飯を食べた。その会食の円卓の隣の席が、アマチュアながら腕の確かな「写真家」であったので、その人の終生のテーマは「富士山」であるいうので、楽しい一時となった。
その方は奈良方面に住まいしているのだが、大和の神社仏閣など目もくれずに、各地に出かけては自然の風景写真を撮っている。こちらとしては、ガイドブックには紹介されない穴場のような古寺の紅葉の一つも教えて貰いたくて、いろいろ聞きたくて、水を向けるのだがまったく乗ってこない。地元の人とは大体そういうモノだが。
その人の携帯で見せてくれた自慢の紅葉の風景は、上高地の画像でこのことについては、そのビュースポットへ行く道を細かく説明してくれたのが、聴く側から忘れてしまった。
さて、井上井月の句は、飄々としたといういうよりすっとぼけていると、読み手のこちららも、ついニヤリとしてしまうものが、少なくない。この句も、その一つである。
妻によし妾にもよし紅葉狩 井月
妻にとっても、妾にとっても紅葉見物はよい遊興であるよ、というのだ。
ああそういうものかと、思ったりするが、紅葉狩りではなく、花見ではどうなんだろうと考えると、春より秋のほうが、やはり気持ちに落ち着きがでるような気がして、正妻さんとお妾さんの間もちょっとばかり平和共存的なムードになるのだろうかとか、・・・、まあ、自分如き朴念仁の想像も及ばぬところであるが。
いづれにしろ、多分別々に紅葉狩に連れ出すのだろうから、大変だろうなとも思う。

岩波文庫の「井月句集」には、外にも「紅葉」の句は沢山掲載されている。
姿鏡に映る楓の夕日かな
姿見鏡に映る色づいた楓、夕日に染まってさらに一層艶やかに、そんな感じか。姿見鏡が置かれている部屋には、どのような人が棲んでいるのかとか思うと、その楓の風情がさらに色めいて来る気がする。
傾城の朝酒たしむ紅葉かな
傾城というのは遊女のことであるから、そういうお方が朝酒を嗜んでいる。それも紅葉酒、ちょっとよって頬の辺りもうっすらと染まってきた。さて、男は。
紅葉見に又も借らるゝ瓢かな
井月は、大の酒好きであった。紅葉狩りとて酒を携えて行かぬはずは無い、というより旨い酒のための紅葉狩である。瓢とは、熟したひょうたんの果実の、中身をえぐり出して乾燥させたもので、酒器やひしゃくとして使った。ここでは、勿論酒をつめて紅葉見物に行くのである。

楽しい。
こんな風に句が詠めたら、いいなあとおもうのだ。