5.彼女の噂、わたしの寒さ:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集
南国なんて言われちゃう宮崎にだって、秋もあれば冬もある。12月になれば室内でもカーディガンやセーターを着るし、最近ずっとテーケツアツ気味なわたしは何を着ていても寒い。
寒い、寒い、寒い。きっともう、わたしの人生はこれからずっと寒いんだ。
「ねぇ、寒くないと?」
この合宿で同室の堀ちゃんに訊いてみるけれど、ウォークマンで聴いている音楽に夢中なのか反応しない。漏れ出る音から『CAN YOU CELEBRATE?』だとわかる。そうか、わたしよりも安室ちゃんだよね。
毎年12月になると、わたしたちが通う高校の2年生は「受験勉強習慣の定着を目的とした合宿」に出る。3年生たちがセンター試験に向けて追い込みをかけるこの時期にあわせて、受験本番の一年前から勉強したくてたまらない心意気をつくるためなんだそうだ。
「合宿」と言ったって、宿泊先は高校のすぐ近くにある宮崎市内のホテルだ。何年か前に「高円宮殿下ご宿泊」なんてニュースでやっていたから、宮崎じゃ有名なんだと思う。
そういう立派で素敵なホテルのおっきな会議室を貸し切って朝から夕方まで集中講義を受けて、お風呂や夕飯を手早く済ませたら夜の9時まで自習タイム。次の日の朝は6時に起きて、大淀川を渡って2kmくらい歩いたところにある宮崎天満宮にお参りする。もし天満宮へのお参りに寝坊しちゃったら「希望する大学には合格できない」というジンクスがある・・・。
わたしたちは今、そんな二泊三日の合宿の二夜目を過ごしているというわけ。
頭だけが数学の証明や物理法則、英文法の暗唱でぽっぽと熱い。でも身体というか、もっと「芯」みたいなところはずっと冷え冷えとしている。だって、冬だもん。
時計の針が、手を合わせるように深夜12時を指した。
堀ちゃんのウォークマンが、また何か違う曲を歌っている。この感じじゃ、まだしばらくは寝るにも寝られないだろうな。わたしはどこか静かなところへ出かけて時間を過ごそうと、鞄に入れてきた『変身記』を手に椅子を立つ。
「わたし、ちょっと外を歩いてくるね」
堀ちゃんは、窓辺に置いてある机に向かったまま「おう」という感じで左手を上げた。なんだ、聞こえてるんだ。それとももしかすると、堀ちゃんも何かわたしに話しかけようとヴォリュームを下げたところなのかもしれない。
わたしは堀ちゃんが今考えていることについて一つ二つと考えようとしてみたけれど大した思いつきもなく、けっきょく部屋を出てドアを閉めた。
さようなら、堀ちゃん。
ドアを閉めたと同時に、部屋の鍵を持ってくるのを忘れたことに気づく。まあいいや、堀ちゃんはどうせまだ起きているだろうから、後でノックして開けてもらえばいい。
堀ちゃんはもしかすると、泣いていたのかもしれないな。
ふいにそんな気がした。安室ちゃんの歌で誤魔化しながら、彼女も身体の芯みたいなところが寒くて寒くて仕方がなかったのかもしれない。そうだとして、わたしが彼女にかけられた言葉はどんなものだろう。
「廊下、寒っ」
声に出すと、もっと寒い。「外」と言っても、建物の外に出るなんて寒すぎる。大淀川沿いにゴキゲンなパラソルが並んだ散歩道も、夜半を過ぎた今は極寒になっているだろう。やだやだ、そんなの。
とりあえずロビーにでも降りてみるか、とわたしはエレベーターを探す。さすがに先生たちもこんな時間に見回りはしていないだろう。他のお客さんたちがびっくりしちゃうもんね。
エレベーターで1階に降りる。
「このまま外に出て消えてしまったら、堀ちゃんや先生たち、わたしのささやかな家族はびっくりするかな」
ちょっとだけそんな風にエントランスの外を見やるけど、もちろん出ていかない。白い蛍光灯で示された玄関通路は、時間が時間だけにとても寒そうだ。
わたしはくるりと向き直り、ロビーへ向かう。
「あ」と声が出た時にはもう遅かった。ロビーのソファーには「鬼のさっちゃん」がいた。
見回りの先生はいないだろうと思っていたけれど、万が一いたとしても一番会いたくなかったのが鬼のさっちゃんだ。
鬼が、こちらへ歩いてくる。
国語教師で柔道部顧問、2年生の生活指導担当。わたしはテニス部にしか興味が無かったのだけれど(今はもうその興味も粉々に消滅しちゃった)、さっちゃんが指導するうちの柔道部はけっこう強いらしい。
というのも、さっちゃん自身がめちゃくちゃ強い(らしい)。「北野さつき」という可憐な名前に似合わず、男子生徒の胸倉だって平気で掴んで持ち上げてしまう(らしい)。まぁとにかくぜんぶが噂なんだけれど、ぜんぶが限りなく本当に近いはずの噂だ。
現在のあだ名は「鬼のさっちゃん」か「さっちゃん」。今27歳のさっちゃんにとっては5年前、大学生だった頃まで続けた現役柔道選手時代の異名は「鵺」だったらしい。
「ぬえって何?」と1年生の時のクラスメイトだった子に訊いたら「よくわかんないけど、とにかく最強の妖怪」って教えてくれた。
つまりわたしは今、深夜のホテルロビーで最強の妖怪に睨まれている。寒さも吹っ飛ぶ、人生のおしまいだ。
「さっ・・・。北野先生、こんばんは」
「3組の河野か。もし建物の外へ出たらそのまま捕まえようと思っちょったが、命拾いしたね。―――はい、こんばんは。どんげした?寝られんと?」
「捕まえよう」という言葉には命の危険を感じたけれど、いきなり怒鳴るとかそんな感じじゃないのが意外だった。たしかに人気がないとはいえホテルのロビーなのだから、場をわきまえているところもあるのかな。
でもまだわからない。この後、明日の午前いっぱいはうちの高校が貸し切っている会議室に連れていかれ、とてつもない力で机の上に叩きつけられちゃうのかもしれない。そしてわたしは、身体がばらばらになるくらいまで柔道技をかけられちゃうんだ。
「座るか?」
「えっ。あ、はい」
さっちゃんはロビーのソファーを示した。「ちょっとうちに寄ってく?」みたいな、気楽でいかにも昼間的な笑顔すら浮かべていた。これが鬼なのだろうか。
「こんな時間にうろついて・・・。勉強漬けで脳みそが爆発しちょっとやないと?相部屋は堀内やろ?もう寝たんか?」
「堀内(これは堀ちゃんのこと)さんは、寝た・・・かもしれないです。どうでしょう」
「河野もちょっと気持ちを落ち着けたら部屋に戻るようにせんとな。ねぇ、ロビーでその本読むつもりやったと?」
さっちゃんはわたしが持っている文庫本を指さした。
「あ、これ。えっと、いつも持ち歩いていないと不安というか何というか、御守り代わりというか。まぁ、ぜんぜん効かない御守りなんですけど」
そう。この御守りは、テニス部の黒木先輩に対してはぜんっっっっぜん効かなかった。もう、まったく効かなかった。
今年の夏の終わり、黒木先輩に「読んでないんだよ、ごめんな」と言われたあの瞬間。あの刹那から、わたしのずうっとずうっと続く冬が始まった。芯から冷える、というよりも芯まですべてが冷たくありつづける無感覚の冬。
このまま春がこなくなっちゃったら、わたし、3年生になれるのかな。
「効かなくても効いても、何か守っている仕草や決まりごとがあるっていうのが大事やもんね」
何年も前みたいに遠く感じる今夏の出来事に沈んでいくわたしの気持ちを、さっちゃんが呼び戻してくれた。
「はぁ」と、気の抜けた返事しかできないわたし。この人、もしかして褒めてくれているのかな?
「毎日毎日繰り返しそのルーチンを守れば、いつかいいことが起きると。おまじないや御守りってのはそういうもんよ。それを続けられる人だけが本性、護られるっちゃが。そんげな人が、一番・・・」
エントランスから、男女が一組入ってきた。けっこう大きな声で喋っていたので、さっちゃんはそこで一回話をやめなくちゃいけなかった。わたしとしては、その先にこそ本当に聞きたいことがあったような気がするんだけれど。
二人組がエレベーターに乗るけたたましい音がして、ふたたび深夜らしい空気が戻ってきた。わたしは改めて、深夜のホテルロビーで最強の妖怪とお話ししていたことを思い出す。
「どこが好きと?」
え、なに。さっちゃん?
「『変身記』。好きなページはあると?」
最強の妖怪が、わたしの大事な本の名前を知っていた。変な声が漏れそうになる。鬼のさっちゃん、本なんて持ったら引き裂きそうなイメージなのに。
わたしはさっちゃんの手をまじまじと見つめてしまった。柔道をやっているだけあり深爪になっているけれど、白くて綺麗な手だった。
何か答えなくちゃと思い彼女の顔に視線を戻すと、わたしはまた、その顔にも涙の跡が読み取れるような気がした。
なんだか今日は、みんなが泣いている日だ。
さっちゃんと目が合いすぎて、奇妙な間が空いてしまった。わたしは急いで取りなすように答える。
「わたし、わたしはあの・・・『ヴラーホスの戦い』でマズウィーテが先陣を切る場面が好きです」
「あぁ、あそこはよかよねぇ。ぞくぞくする」
「え、わかるんですか?」
わたしが訊くと「まあ見てなさい」という風にさっちゃんは立ち上がった。そして、人気がないロビー中に響きわたるような遠慮のない大声で『変身記』の主人公であるマズウィーテの台詞を諳んじはじめた。
さっちゃんは、テレビに映っている歌手がするみたいにわたしの方へマイクを向けた。わたしは奮い立つような気持ちでその見えないマイクに応え、何度も読み返した台詞をさっちゃんに合わせた遠慮のない大声で繰り返した。
わたしは、最後のパートを叫びながらソファーから飛びあがった。
「先生、すごい!」
「小さい頃から何度も何度も読んどるけんね。河野も、覚えとるっちゃ?」
「ここだけ、くらいのものですけど・・・。でも先生の台詞凄いです。興奮しちゃいました!」
さっちゃんは、ハッと息を呑んでロビー全体を見回した。
「興奮したら寝られんやん。明日また授業あるっちゃから、はよう部屋に戻り!」
すごく勝手だなと思ったけれど、横暴な教師という感じは全然なかった。ちょっと恥ずかしそうに体裁を保つさっちゃんは、最強の妖怪というよりいたずらなエルフみたいだった。ちょっと、エルフにしては身体つきが強すぎるけれども。
「あ、わたしの本は・・・」
「深夜に徘徊してたんだから、これは没収だ」
「そんな・・・。わたしの御守りなんですけど・・・」
やっぱり、鬼は鬼なのかもしれないな。エルフじゃなくてドワーフにしておこう。
そう思いかけたところに、さっちゃんが慌てて付け加える。
「『没収』というのは違っちょるかもしれん。ちょっと貸してくれたら嬉しいんやけどね。実は文庫本で読んだことがないとよ。それに・・・」
「それに・・・?」
「うん・・・。まぁ、良かろうが。没収、没収!また別のおすすめ本と一緒に返すけん」
そう言われたら、悪い気はしない。
彼女はもう少し残っていくからと言って、またロビーのソファーに座りこんだ。
わたしは御守りをさっちゃんに委ねて、エレベーターで自分の部屋がある階に戻っていった。一度閉じたエレベーターの扉は、目的階に着くとまた開く。
一度閉じたら、また開く。
当たり前の日常の言葉が、眠気のせいなのか、何かのヒントみたいにわたしの中でひらめいた。
***
翌朝、わたしが眠たい目をこすりこすり宮崎天満宮からホテルに戻ってくるとき、別のクラスの男子生徒が「鬼のさっちゃん」の雷を脳天にくらっていた。
「貴様らの・ような・舐めくさっちょる・人間は・絶対・受験に・落ちる!」
・・・それは、まぎれもない鬼だった。最強の妖怪、鵺だった。
もしかしたら、わたしが昨日ロビーで会ったのはまやかしの妖怪で、今目の前で男子生徒をめためたに叱り飛ばしているさっちゃんではなかったのかもしれない。
わたしと堀ちゃんはそそくさと部屋に戻り、びびり笑いをしながら「こっわっ」と言い合った。
お参り後に設けられた朝食の時間で部屋を出るついでに髪をとかそうと、わたしは鞄の中に入れた櫛を探す。
そして、昨日ロビーで出会った「わたしだけの」さっちゃんが本物だったのだろうと悟る。鞄から、わたしの御守りがすっかりなくなっていたのだ。それは確かに、昨夜さっちゃんに『変身記』の文庫本を渡してきたということだ。
大切なものがなくなることで、大切なことを確かめられる時がある。
わたしの御守り。わたしの片手におさまる、大切な物語。それはやっぱり効果てきめんで、わたしに大事な時間をくれたみたいだ。
誰も知らない、わたしだけの彼女。
そんな考えは、わたしの「芯」をほんのり温めてくれた。
わたしの中から、得体の知れない寒さが去っていく。
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