#10:人はきっと目の前の人の「中身」ではなく「装飾」に期待している
こんにちは!本noteでは日々の小さな出来事を深掘ってみて抽象化・構造化したり、私の好きなエンタメ(映画・ゲーム等)の考察を投稿してます。
今回は最近感じる事が多いテーマ。それは「役割」について。
仕事をしている人にはすべからく「役割」があります。部長・係長といった役職、営業・人事といった部門、デザイナー・エンジニアといった職種。これらは客観的に付与されている物(お客様にとっての役割・同僚にとっての役割など)の為、サラリーマンでもフリーランスでもお金を頂いている立場であれば必ず「役割」を持っているはずです。
この「役割」を我々はどう捉えているか?について今回書きましたが、結論は「私たちは役割に支配されている」というどんでん返しモノ映画にありそうな物騒な導入ですが笑、是非最後までご一読頂けると嬉しいです。
役割を「箱」に例えてみよう
役割:人格=箱:中身
最初に構造的なお話をします。それは役割とは「箱(パッケージ)」のようなもので、個人の人格は「箱の中身」である。という事です。
例えば、人事部門で仕事をしている加藤さんは「人事」が箱であり「加藤さん」が中身という事ですね。シリアルキラーモノ映画のような表現ですがこのまま続けます。
「箱」の持つ特徴
ここで言う「箱」には2つの特徴があります。
①中身を好きに変えられる
箱とは何かを入れるためにあります。箱の容量の内であれば何を入れるも自由、入れ替えるも自由。もはや中身が本体なのか、箱が本体なのか。
②箱の大きさ=中身の大きさでは無い
Amazonで購入した商品が配送された時、段ボールを開けるとそのサイズに見合わないほど小さな商品が入ってる事があります。箱の容量いっぱいに中身が詰まっているとは限りません。
この2つの特徴を「役割」と「人格」に置き換えてみます。
①同じ役割でも人格は流動的
営業の岡本さんは明日突然人事に異動します。今日は「営業の岡本さん」なのに、明日は「人事の岡本さん」になってしまいます。人事の事なんて何も分からない。知識もスキルも無い。結果も何も出してない。そんな事は関係なく周囲は岡本さんを「人事の岡本さん」と認識します。
②誰もが役割を果たせるとは限らない
人事には人事に求められる期待・責任がありますが、着任したばかりの岡本さんにそれ応えられる能力は当然ありません。つまり例えば人事が10人いても周囲の期待・責任を果たせる人事は5人しかいないかもしれません。
役割は人の認識を支配する
自分の認識の支配
この話は以前に別の投稿でも書きました。
人間というのは不思議で、役割を自分の人格と錯覚します。役割に紐づいた行動を自分の行動と思いこむ。日々の判断・発言も自分の人格ではなく役割を基準に行使してます。頭でお役所対応だと分かっていても、役割上意気地になる時だってあります(それが間違ってる訳では無いです)
これは役割に"責任"が結び付くからです。人には責任感があるので、責任を果たそうとする。責任感が強い人ほど仕事とプライベートに差があるかもしれません。器用な人は「役割」の意見と「人格」の意見を使い分け、場面に応じて片方を優先する事ができます。
他人の認識の支配
我々は仕事をしてる人の「人格」では無く「役割」に対し接します。スキルは人によって違いと、分かっていてもつい「役割が果たすべき責任」に対し態度します。昨日まで営業だった岡本さんは、人事という箱に詰め替えられパッケージが変わりました。それを知り「大変だね」と言葉をかけても、結局翌日には「人事の岡本さん」として接するのです。
仕事をしてると「人事の癖にそんな事も知らないのか?」とか「これは本来事業側が考えるべき事じゃないか?」と思う事が、1日に300回くらいあるはずです。でもこれってその人達が役割を満額果たせる前提、箱の中身がいっぱい詰まってる前提です。
けどそこには昨日異動してきたばかりの岡本さんがいます。隣には、今すぐ仕事を切り上げて酒を飲みにいきたい長島さんがいるかもしれません。実際実行するのは、人格を持った一人の人である事を忘れてはいけません。
例えばアナリストという「役割」を持つ人が、どんな分析も出来て魔法の様な考察を出せる訳でもない。それでも、特に力量不足だった時に我々は相手に期待を裏切られたように振る舞ってしまいます。
上司という役割は「特大の箱」
役割が抱かせる支配的感情は「上司」に顕著に出ます。
管理職は人事・アナリストなどの部門・職種と全く並列な「役割」ですが性質が少し異なります。周囲からは非常に大きく美しい装飾が施された箱に見えていて、その中身が箱一杯に詰まっていると期待されます。困り事を解決し、正しい評価を下し、部下のスキル上位互換であるという期待を。そして前述の「自分の認識の支配」の通り、上司自身も「上司らしく」振る舞うでしょう。
忘れたくないのは、人事の岡本さんが昨日まで営業だったように、上司だって最近上司になったばかりで部下歴の方が長いかも、しれません。
責任を問う事自体は正しい
「父親失格」とは何か?
話は逸れますが、父親という「役割」は子供から見て最大級に大きく装飾された箱であるはずです。けど実際は父親も一人の人間で、数年前までは酒で酔い潰れるような等身大の「人格」があったはずです。
とある父親の息子が誕生日を迎えます。父は仕事を早く切り上げ、用意したプレゼントを脇に帰ろうとしますが、絶対に自分が必要なトラブルが発生してしまい、最速で処理しタクシーで急いで家に帰ります。残念ながら息子はもう寝てましたが、プレゼントを枕元に置き息子に向けた手紙を書く事にしました。結果的に満点は出せませんでしたが、彼の父親としての姿勢を否定する人は少ないでしょう。
これとは別に、息子の誕生日を忘れ手ぶらで帰り、何事もせず床についてしまう父親がいたら人は彼を「父親失格」と言うでしょう。
大事なのは「責任を果たす努力」
役割に紐づく責任を問う事は間違ってる事では無い。むしろその前提が無いと役割の機能が崩壊しますし、組織はその前提で設計しないと進まない。伝えたいのは「役割を与えられる=確実に責任を果たせる訳では無い」現実です。RPGゲームのジョブじゃないんだから、どんな役割でも結局その責任を果たせるかは箱の中身=人格次第です。
それを踏まえ大事なのは「役割=責任を果たす努力をしているか?」を見る事だと思います。先ほどの父親のように。箱と中身の質量に差がある、そんな事は当たり前。であればまずはその人を「責任を果たすべき役割を持つ人」ではなく「責任を果たそう努力しているかどうか」として向き合うべきと私は思います。
箱の蓋を開いて「人」を見よう
みんなが目の前の人の「役割」だけ見て接してしまうと
平たく言うと責任の押し付け合いになる
役割を超えた越境が減る
~が本来やるべきが全てになり何も進まない
相手が役割と人格のギャップに苦しむ
などの弊害が生まれます。相手の役割と紐づく責任を問う事は、役割を機能させる上で健全と言えます。けど、それで全て終わらせてしまっては結局正論を振りかざしてるだけです。箱の中には人がいて、その人は箱と中身のサイズのギャップに苦しんでるかもしれません。
なので、私は仕事をしている人に出会ったらこう考えたいです。
目の前の人は役割を果たす努力をしてる。それ故に「分からない」「出来ない」「やりたくない」とは言えない。その態度を鵜呑みにして役割への期待を押し付けるのは、エゴだと思います。
一人ひとりが少しだけ「相手だって完璧じゃない」「相手だって悩んでいるんだ」と思うだけで、その悩みを役割とは関係ない誰かが埋めてくれるような「人格と人格の仕事」が初めて生まれてくるのだと思います。これは、自戒の念も込めて。
本記事は以上です。最後までご高覧下さり、有難う御座いました。