無作為な思考の産物
〜みたにノ戯言P.13〜
《キッカケ》
〜7月ある日〜
無作為に考えてみようと思う。
何かテーマが決まっているわけではない。
たまには、100%自分のために書いてもいいかなっと、思ったからだ。
特に意味はないが、なんとなしに考えを広げて行くと、うっすら思っていた事が見えてきて、頭の中の整理になったり、やりたいことが見えたりしてくる。
僕は結構気に入っている。
そんな所が産物なのではないだろうか?
と思ってみたり....
もう始まってるみたいなものですが、無作為に考えて行こうと思います。
《ギロン》
議論する。
賛同者しかいない話し合いは、怖いなぁって感じる時がある。僕らはたまたま、同じ方向性の人が集まっただけで、実際には違う視点があるわけであるし、そこをあまり理解できてないで、決めてしまってるような気がしてくる。
まあ、僕が天邪鬼だからでもあるが、ちょっぴり怖い。
そんな中で意見を言うのもはさらに怖い。
でも、なによりも怖いのは、議論の話題が倫理観とか社会とか常識に対する考えだったり、誰かのアイデンティティに関わる内容の時。
大事な話だから、みんな真剣に考える。いい事だと感じるし、自分の周りの人が問題を蔑ろにする人たちじゃなくてよかったと思ってる。本当にそう思う。
でも、熱が入りすぎるとやっぱり、誰かを批判していくような内容に寄っていく感覚にどうしてもなって行ってしまうと思う。冷静に考えれば誰も別に他者を傷つけたいわけでは無いだろうに、自分達がされてきたことを他の人にやってしまっている。
認めないという事は怖い。
僕らは認められないことに対して憤りを覚えて、その事を論じたり、考えたりしてきた。と、僕は思っているけれど、案外、周りはそうは考えていないのかもしれない。
認められない事に反発して他者や考え方を受け入れない事は、社会から排除する人を新たに作り出しているだけではないのだろうか?別に、受け入れたことが、認めたことが、その人達や行為や思考を全面的にフォローするものではない。
「あなたの事は分かった。でも、それだけじゃない」
《オト》
音が好き。
音楽というより音なんです。
音楽を聴くのは特に好きではないんです。
自分が弾く曲をよく聞きます。
客観的にみるとふざけたやつである。
あんまり自己嫌悪に陥りたくはないが、普段、自分が音に対して意見していることを並べてみると、なんてスカしたやつなんだと感じる。
でも別にテキトーに言ってるわけでも、自分の役者としてのイメージ付けのために、やっていることでもないのである。多分.....。
自分でもはっきりしない部分がある。それは確かなので、ただ“好き”と纏めていた事を解きほぐそうかなぁと思った。
この中でも歌があまり好きではない理由は、結構解明できているので、その事を初めに書いていこうと思う。
音楽、音とはそれ単体で沢山の情報を含んでいる。普段は自分の聞こえるものを選択しているだけで、僕は音の世界は視覚以上に広いように感じている。
クラシックなどの音楽を聴くと分かりやすい感覚かも知れないが、直接的に文字や歌詞を使って伝えなくとも多くのイメージが伝わってきて、情感が湧き上がる。愛について叫ぶとか、哀しみを歌うとか、葛藤を投げかけるような歌詞が無くとも、そういう情感が薄い煙みたいに立ち上がってくる。
クラシック音楽に内包されるのは、情緒的、感情的なイメージではない。それらの、人間を人たらしめていると思われている内面的な部分をより写実的に、客観的に描写したものである。と思っている。音と言う、具体的かつ記号的なイメージが固まりとなって、受け取り側に流れてくる。それを掬い取るか否かは受け手側の選択に任されており、掬い上げてみると僅かなイメージの粒が受け手に引き渡される。
言語があると、どうしてもその意味を追ってしまう。
”音“の良さは、発信源が直接的な手段を選択しない所に良さがある。
11月ある日
思ったより文が長くなってしまったので、この辺で終わろうと思う。本当に無作為すぎて収集がつかなくなりそうだったけど、書いていて楽しかった。
読みやすい文章が書けた気がしないが、考えることの楽しさを共有できたら、いいかなって思っています。