維唯花
自己愛被害の本質は、加害者たちの実際の言動以上に、彼らの異常なエネルギーの憑依である。その被害構造を明確に理解することで理(ことわり)によって憑依を落とす
生まれ変わった愛猫承との日常
ターゲットに自然な回復をもたらしてくれる真の力とは何か? 被害構造への俯瞰的な視点からの洞察、身体性へのアプローチ、空間へのアプローチの3つの側面から、真のレジリエンスをはかる。
生まれ変わった愛猫。その奇跡の記録。 過去から引き継ぐいのちの流れと、新しい学び。 承(つぐ・仮名)との過去からの絆と月との不思議な縁(えにし)
被害に遭ったから他者には絶対しない人と、自分がやられた事を関係ない他者にやり返す人がいる。 この違いはいったい何なのだろうか? 潜在意識とエネルギー的視点から、考察、洞察する。
掲題の表現を使うのは、精神科医でもないのに診断は下せないからである。 (何度も繰り返し使うので、面倒になってたまに自己愛とか省略した書き方はしているが 笑) 別に診断名をそこまで重視していないというか、大事なのは正確な診断名ではなく、他者の人権侵害や他害、異常な執着があるかどうかが問題なのだから。 幼少期を思い起こせば、誰でも心当たりはあるはずだが、 自己愛的な要素はすべてのひとがデフォルトで備えているものである。 赤ちゃんは全員が自己愛全開なのが、生物として自然で正常
楽しいかどうか、面白いかどうかは わたしの物事の選択基準において大きな割合を占める。 よくも悪くも好奇心が強いというのか、 なんであれ、それなりに面白がれるというのか 楽しめてしまうところがある。 楽しいのは、未知だからだ。 知らないことを知るのは楽しい。 新しさだけがもつ力をなによりも信じているのだ。 300円ぐらいのボールペンでも、見たことのないタイプの新品はうれしくなる 笑 あらゆることの自然な解決は、エネルギーの浄化と循環によってのみ、 もたらされると信じて
自己愛的な加害者たちの内面世界および、そのエネルギー状態の考察の補足になる 補足というか、投稿時期が前後するが今回の記事で書くことがベースである。 *なぜ自己愛的な加害者たちは他者の視点に立てないのか?相手と立場を置き換えて考えられないのか? *なぜ彼らは性悪説を体現しながら、ほとんどの他者(特にターゲット)には性善説を揺ぎ無く適用できるのか? 上記について、潜在意識とエネルギー次元から考察、洞察する。 自己愛被害が複雑化、深刻化する大きな要因として、彼らは真には他者
*自己愛的な加害者たちの内面世界および、そのエネルギー状態の考察 *自他境界のなさがもたらす認知の歪みと誤認識 *自己愛にとってのアイデンティティとは「パターン」である。 彼らはすべての人間関係のスタートラインである、 他者の尊厳と権利を自分のそれと同等に尊重するという、 「共存」するための最低条件を満たさずに人間社会に生き、他者と関係を結ぼうとする生き物である。 特に自分が「下」と認識した相手に対しては、「最初から」満たす気などさらさらない。 自己愛的な加害者たちが周囲
一緒にいたいか、声を聞いていたいか、紡ぐ言葉が心地いいか、優しくあたたかい気持ちになれるか 自然にしていられるか。。 自然な心地よさは、もたらされるものだ。 高揚する喜び、というより 特にひっかかりがない、自然な状態である。 ひとは幸せなとき、幸せを意識しない。 組み合わせや相性がいいとき、相性を意識しない。 相手を大切にするとか、自分が大切にされているかとも意識しない。 真に対等であるとき、対等を意識しない。 その「組み合わせ」でしか、起こらないこと、得られ
この美しく、あたたかく、優しい神秘の存在は、いまの人間社会では「哺乳類ネコ科」とカテゴライズされているが 古代エジプトでは「神」と認識され、あがめられていた。 猫が神と認識されていた時代から、人類はほんとうに進化しているのだろうか? むしろ古代の人々のほうが自然とともにあり、高い直観力や洞察力を備えていた気がする。 この世界は既知よりも未知のほうがはるかに多くて、 ひとが認識出来て、尚且つカテゴライズできることなど本当にわずかである。 勝手に概念をつくって、その枠内にあては
*自覚のない取巻きの方が悪質さでは優っている。 *直観力が高くても、異常性に気がつけないケースもある。 わたしは大学時代から知識や概念としては知っていたが、やはりあまりにも未知のことは経験するまではわからないのだ。 どうしても既知にあてはめて、わかった「つもり」になっていただけだったりするからである。 数年前人生ではじめて自己愛被害に遭ったとき、その相手には間違いなく自覚があった。 今でも確信している。 はじめて明確に相手に指摘した時(メールである)、どれほど逆上するの
もしかしたら、良心以上にひととしての行動倫理を支えているのが、 その個人の独自の美意識やポリシーなのではないのかと、感じている。 美学というと、なんかとても崇高なイメージだが、 単純にダサいことはしたくないという、ひととしての矜持というか美意識である。 どこに美意識の重きを置くのか、その独自の感性やポリシーが個性だとおもう。 わたしは、自己愛をテーマにした記事をたくさん書いているけれど、彼らは本能としての優越欲求に忠実で、その言動は金太郎飴に例えられるように 個性とはいえ
昨夜、愛猫承が、久々にうんぴー事件を起こした。 かまってはいても、自分にまっすぐに意識が向かっていないと不満なのだ。 猫と一緒に暮らすまでは、なんとなくクールなイメージがあったため、 これほどまでにまっすぐな愛情を求め、そして与えてくれる生き物だとはまったく想像していなかった。 承は基本的に猫格者だ。 不満があっても、噛んだり、引っ搔いたりということはまず、ない。 暴れたり、ものを壊したりすることもない。 朝ごはんの催促も、ベッドのなかにいるわたしに前足でそっと控えめに
ひととの関係において、根底に信頼があってこそ 真の交流、エネルギーとしての交流が成立する 両者のあいだに信頼さえ、存在していれば 相性や組み合わせがいいとは言い難くとも なんらかの学び、得るものがある。 経験として、なにかが残るのだ。 ひととしての信頼がなければ、真にはなにも起こってはいない。 事実に基づいての逆切れまでは、状況によっては許せても 保身だけのために、事実を平然と捻じ曲げた時、信頼は消える。 信頼がなくなれば、その相手に心をひらくことはないのだから も
*集合意識と身体感覚の共鳴 *我慢と努力の混同だけではない、深層心理における誤認識 *真の徳とは? 身体へのアプローチの重要性を更に掘り下げて考察するまえに、 取巻きやフライングモンキーたちについて、潜在意識とエネルギー次元からの洞察を補足したいとおもう。 取巻きやフライングモンキーは基本的に自己愛的な加害者たちと同類であるが、自覚のない自称善人が一番悪質である まず、自己愛的な加害者とその毒同士が感応し合う関係が続けられる時点で、いわゆる真の善人ではない。 まして加害
ヨーロッパ諸国でも、日本でも古い時代の言葉には魔力が宿っている気がする。 'Мне отмщение, и аз воздам' 美しいフレーズである。 教会スラブ語表記だ。 音は読めないのに、とても魔力を秘めた美しい言語だと感じる。 郷愁すら覚える。 言葉に宿るエネルギー、わたしには音よりも、 その形が発するエネルギー、周波数が先に飛び込んでくる。 古い言語に触れると、言葉や文字が魔術だということがわかる気がするのだ。 古い時代のひとびとは、誰もが無意識に使い
*取り巻き、フライングモンキーという存在を考察する *自己愛被害、その被害構造におけるキー概念とは? 「負の連鎖を引き継ぐか否か、その分水嶺Ⅰ」の洞察とかなり重なる。 自己愛的な加害者たちに取り込まれたひとたちには、様々なタイプがいる。 普段接することのない、強い異常なエネルギーに引っ張られ混乱してしまい一時的に取り込まれてしまっただけ、の人から その本人も自己愛的な加害者気質であった人、 さらには主犯よりも悪質であるケース、すらある。 悪質というのは、本当に自覚がな
それがほんとうに真実かどうか、は天に誓って、 神社の御神前においても、ひとに対するのとまったく同様に 堂々と主張できるのならば それは、その本人にとっての真実なのだろう。 ひとであるかぎり わずかばかりの迷いや、濁りはあったとしても 自然法則や良心に大きく外れていないのであれば、 御神前でもありのままでいられるだろうから。
すべてのひとの目には、見えないレンズがはいっている。 その、二つとない固有のフィルターを通して、世界や他者、現象を 認識、解釈しているのだ。 思い込み、先入観がまったくないひとなど、存在しない。 タイポグリセミア現象というものがある。 こんちには みさなん おんげき ですか? 文章中の単語の文字順が入れ替わっても、その単語の語頭と語末の文字が正しければ、問題なく読めてしまう不思議な現象である。 間違えて並んだ文字も脳で補完、修正して認識できるのだ。 人は自分の経
身体性へのアプローチの重要性について 前回の記事の補足になるが、身体へのアプローチは即効性に優れているというだけではなく、回復において一番の基本だと感じている。 目には見えないが、確かに存在するエネルギーの影響は積み重なることで、目にみえる形で現象化してしまう。 潜在意識下における、深刻な影響は「負の連鎖を受け継ぐか否か、その分水嶺 Ⅰ(Ⅱは補足)」で詳述している。 目に見える影響とは、まず自己愛的な加害者たちの異常なエネルギーに接し続けることで、どうしても本来の生命エネル