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書評:「公共哲学入門」

僕たちは先人が丁寧に整えた社会のシステムの恩恵に預かりながら生き延びている。
それは、目で見ることのできる交通・上下水・電気インフラのような物質的なものだけでなく、法律、選挙などの社会システムのようなもの、
さらには公共性、共同体、各種政治イデオロギーなどの個々人のアイデンティティの根幹を担うような概念構造にまで及ぶ。
僕たちはまだまだ多くの社会的な課題を抱え、新しく生まれる問題にも直面しているとはいえ、
人類の歴史を振り返ればこれほど安定して、民主的と言われるような時代は過去には存在しなかった・・・という人もいる。

しかし、この安定し整った(しかし依然多くの問題も抱えている)社会が
過去にどのように作られ、
現在どのような構造になっており、
将来どのようになりうるのかを、
筋道通して理解できている人は非常に少ないのではないだろうか?
僕たちはなぜこのように生きることができ、
どのようなことに向き合うべきなのか?
公共性?公益?ポピュリズム?
選挙投票の直前になって毎回「あー自分って全然何もわかってないなぁ」と、おのれの不足にガッカリする人は、少なくはないはずだ。

そんな疑問や不足感に一定の尺度を与えてくれるのが、今回紹介する「公共哲学入門」という本だ。


01.どんな本?

この本は「公共性」(下記)の著者としても知られる齋藤純一氏と、谷澤正嗣氏の共著で、
内容をシンプルに表現すると
「公共哲学における公共性の、議論の系譜まとめ」
と言えると思う。

カントから始まりアレント、ハーバーマスを経て、
功利主義、
リベラリズム、
リバタリアニズム、
ケイパビリティ・アプローチ
・・・といった現代においてもよく耳にする思想やシステムの話に進み、
最後の方ではフェミニズムやケアといったより現代的な議論に至る。

最初の方のカントやアレントにおいては包括的で哲学的な議論が中心だが、
話は徐々に具体的かつ実践的になり、公共性の議論は多くの識者によって少しずつ積み上げられ改善してきたものであることが理解できる。

公共哲学の一読者にすぎない自分では、
本書における各議論・思想の選定やまとめ方が妥当かどうか、
もしくはどのような偏向があるかについてジャッジすることはできないが、
僕自身で読んだことのあるアレントなどの章を読む限り、
非常に簡潔かつ的確にまとめられていると感じた。

普段このようなジャンルの本を読まれない方は少し難しいと感じるかもしれないが、
抽象的な概念には逐一丁寧な説明がつけられており、
決して読むのが不可能というほどの難しさはない。
ガイドラインとして、教科書的にまとめられた一冊なので、いろんな人に手に取ってもらいたい。

02.自分の活動のガイドラインになる本

この本のすごいところは、多岐に渡る複雑な公共性の議論を一本のシンプルな系譜として表現できているところだ。
なぜそのようなことができるかと言うと、
政治理論やシステムにまつわる議論にフォーカスを絞っているからだ。

もちろん、本書は、公共哲学が検討すべき主題を網羅的にカバーしているわけではなく、基本的には規範的な政治理論からのアプローチに限定されている。

公共哲学入門p287

では、政治理論やシ政治システムに興味がなければ
(選挙権を持っているなら興味があった方が良いとは思うが・・・)
価値がない本かと言うと、
上記引用の続き(以下)からも分かる通り、有用な「基本線」として機能しうる。

とはいえ、本書では扱えなかった問題領域、たとえば経済や科学技術にかかわる主題を考察する際にも、本書が描いた探究の基本線は活かすことができるのではないかと思う。

公共哲学入門p287

「自分の活動や思想が、本書が提供する基本線のどの部分と関連しているか」
という読み方をすることにより、
自身の活動や思想を公共哲学の系譜の中に位置付け、整理することができる。

例えば、自分が設計やリサーチのビジョンとして提示する「オルタナティブ・パブリックネス」は
アレントの議論を自分なりに発展させたものであると同時に、
私(プライベート)-公(パブリック)の境界線を見直すものであるという意味では
フェミニズムの議論からも、まだまだ学べることが多いという印象も受けた。

本書が提供する基本線のどこかに自分を位置付けることで、
自分と親和性のある識者や思想を見つけることができ、
今度は原典にあたってより思索を深めていくことができる。

つまり、複雑に絡み合いとっつきにくかった公共性の議論を、
自分なりに学ぶための入口(まさに入門)として機能する本となっている。

03. この本における公共性とは?

フォーカスを絞るという経緯に応じて、
本書が指し示す「公共」や「公共的」、もしくは「公共性」の意味・指向も明確に限定されている。
それは本書の1番最後の一文(以下引用)からも明らかだ。

公共の関心事についていろいろな場で、また、さまざまな機会に語り合うことを通じて、私たちのコミュニケーションをまさに公共的につなげていくことができるだろうか。

公共哲学入門p291

このように本書の公共性とは「コミュニケーションにおける」という枕詞を伴う。
そのため「コミュニケーションにおける」には該当しない公共性の議論とは、
関連性はあれども基本的には別のものである、
ということに注意しないといけない。
たとえば、建築で議論され実践されるような公共的な空間(物理)とは、
似ているようで異なるものであり、
ましてや公共事業という意味での公共空間(公共施設)とは似ても似つかない、全くの別ものである。

建築などの他分野で議論する公共性と本書の公共性を安易に同一視してしまうと、
議論の射程や有効性を見誤ってしてしまう。

公共性の意味する範囲や指向性を本書が限定しているのは、上記のような混同を引き起こさないためだと推測できるが、
本書に臨む際は「『公共哲学における』公共性」という『』を付けて、
自分がイメージする「公共性」からは一旦切り離しておいた方がベターだろう。

逆を言えば、
本書における「公共性」には語られていない領域が膨大に眠っているということになる。
それは上の引用にもある「経済や科学技術にかかわる主題」だけでなく、
語りきれていないとすら本書内で言及されていない「建築(物質的な世界)における公共性」なども存在する。
もちろん、そういう領域が本書に潜在して残されていることが本書を批判する理由には決してならない。
なぜなら、フォーカスを絞ること自体がこの本の功績だからだ。

・・・とはいえ、本書が入門としてせっかく「基本線」を引いてくれたのだから、
そこから多少なりとも自分たちなりに、「語られていない領域」へ、
枝葉を広げてもいいのではないかと思う。

以降では、本書の基本線からどのような議論(自分の場合は建築における公共性)が展開可能かを、
本書への2つ違和感から少しだけ考えてみようと思う。

04. 建築は公共性にとって邪魔な存在?

まず最初に本書に対して覚えた違和感は
「コミュニケーションをするためにはそこには必ず実際の場所や空間が存在する」
ことについて、全体を通して言及が少なかったことだ。
(本書のフォーカスの絞り方からして、言及のしようもないのだが・・・笑)

僕たちが身体を伴った人間である以上、実際にコミュニケーションする時には物理的な空間の中において可能であるはずだし、
SNSのようなリテラルには非物理的な空間においても、
インターフェースや端末先の身体が存在する以上、擬似的な物理的空間として特定の環境管理型権力が存在するはずだ。

実際の場所や空間がどのような設えになっているかは、そこで生まれるコミュニケーションを大きく左右する。

その場所は室内か室外か?
誰でもアクセスできるのか?
管理上の問題で行為に制限はあるのか?
どのぐらいの大きさか?
壁で囲われているのか、いないのか?
喫煙ルームか?禁煙ルームか?
テーブルはあるのか、ないのか?
対話相手をどの程度視認できるのか?
地域文化や慣習がその場所にどのような影響を与えるか?
時間帯や季節に影響される場所なのか?
そもそもどのような人が来る場所として期待できるのか?
・・・

実際の空間では、本当に小さな違いがコミュニケーションを左右する。
本書内で載っているアレントの写真はタバコを吸っているが、
嫌煙家の僕ともし対話をする時、ちゃんとタバコを吸わずに我慢しくれるのだろうか?
タバコを我慢すれば僕はハッピーだが、アレントはイライラするだろうし、
逆にタバコを吸われれば、僕は一刻も早くコミュニケーションを打ち切りたい。

アレント(アーレント)
喫煙者なので、
もし現代で彼女と僕が話をするなら、
良い設計の分煙設備・手法が
必要かも知れない。

公共哲学の視点からはとるに足らない些細なこととして処理されてしまうかもしれないが、
建築をはじめとした実際の場所や空間においては、コミュニケーションの質を限定しうる本質的な問題になる。
建築行為が何かと何かの間に線を引くこと、もしくは物質化することである以上、
どのような建築も、それが仮にバーチャル建築だとしても、コミュニケーションの限定が存在しないことは絶対にありえない。
建築その他の実際の空間や場所は、公共哲学の実践をいやーなところで邪魔し続ける存在として、
ずーっと蝿のようにブンブンと顔のまわりにまとわりつくだろう。

本書で描かれるコミュニケーションに違和感を覚えるのは、
上記のような限定が一切存在しない、
あたかも「理想的に心地よい室内」を前提としたコミュニケーションであるということだ。
(しかし、そのようなものは未来永劫実現することはない)

05.本当に僕たちはコミュニケーションすることが可能なのだろうか?

もう一つの違和感は、
「僕たちは本当に議論したりコミュニケーションすることが可能なのだろうか?」というものだ。

もちろん、僕たちは日々、他の人々と対話をしながら生きている。
しかし、お互いが同じように対話の内容を理解できているのかは定かではないし、それを証明する方法も存在しない。
「犬」という単語一つをとっても、思い浮かべるものは人それぞれ異なるだろう。
それが複雑な建築物ともなれば、思い浮かべるものが一致することはまずあり得ない。
一から図面を引いた建築家がその建築物に1番詳しいかと言えばそうでもなく、
実際に手を動かして作ったという意味では大工さんの方が詳しいし、
実際に使ってみて建築物のポテンシャルを引き出すという意味では建築主の方が詳しい
・・・とも言える。
彼らはみんな、別様に1番、その建築物について詳しいのであって、
同じモノを前にして全く別の世界を視ている。

そのように考えると、
そもそも本書が前提としているアレントの「世界」、
つまり全ての人が共通に認識する場所や空間は果たして存在するのか?
共通認識が存在しうるという本書の期待それ自体に疑問を持ちたくなる。
(この点についてはアレントの解釈次第では、世界は特定の法や物質化を伴った限定的な領域のみで可能と考えることもできるし、少なくとも建築家 山本理顕氏はそのようにアレントを解釈しているように感じる。)

建築をはじめとした実践は、コミュニケーションがすれ違いながら継続していくことを前提としてる。
僕たちは理想が掲げるほど言葉を操ることに長けていないからだ。
だから、僕たちは逐一図面や模型提示し、
ことある毎に、書面や契約書を交わす。
場合によっては裁判にまで発展することもある。
脳内のチップが人間の意思疎通を極限までスムーズにする・・・そんな未来がもしかしたらあり得るとしても、
現にすでに違ってしまったコミュニケーションが残す歪みは、完璧には取り去ることはできないのではないかとも思う。

06.「公共哲学の裏側」としての建築

繰り返しになるが、上記04と05で述べた違和感は本書への批判には当たらない。
むしろ、あえてフォーカスを絞った公共性の議論自体が、
今まで明確に意識できなかったこれらの違和感を引き出している。

建築が孕むコミュニケーションの限定性(04)やコミュニケーションの不可能性(05)は、再度翻って、
「建築における公共性とは何か?」
という議題を
公共哲学の文脈から距離を取りつつ検討する機会となる。

ここからはあくまで僕自身の思想に基づく意見になるが、
建築で公共性を考える際、公共哲学のように理想的なパブリックネスを目指すことには本質的な矛盾があるように思う。
おそらくは本書内の十分主義以上に、
不完全さを強く認識したPrivative Publics(欠落した公共群)が必要になるだろうが、
それ以降の議論は、note内の他の記事(以下)に譲ることとする。

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