高齢者が最期まで栄養を与えられ続けることの弊害と自然死の比較。
不自然な死とはどういうものか?
病院や介護施設で多くの高齢者を見ていく中で、
私が出した一つの結論が、「最期まで栄養を与えられ続けること」だ。
今日は、私が考える「ナチュラル・デス(自然死)」について、
「ナチュラルではない死」と比較しながら考えてみたい。
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人間というのは、特定の病気がない人でも、
本来、歳とともに体の中の水分量が減っていき、
消化能力もだんだんと弱くなっていくものだ。
人によっては、
食事を摂るとむせる人がいるし、
体がうまく動かなくなってきて、
自分一人では食べられなくなってきたり、
食事や水分が摂れなくなってくる人もいる。
ここでどうするかが、
最期まで自然に死ぬか、不自然な死になるかの分かれ道だと私は思う。
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多くの人は食べられなくなることに対して必要以上に心配する。
子どもの看病をしていても、
子どもが熱を出して何も食べられなくなったら、
心配になって無理やりにでもなんとか食べさせようとする。
でも本当はここで大事なことは、
「何もしないこと」だ。
体温調整と脱水にならない程度の水分を与えて、
あとは回復するまでゆっくり休ませてあげたら、
自然に回復する。
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子どもと違い、高齢者は確実に日々「死」に近づいているのだから、
その人にとって自然な寿命をまっとうしようと思ったら、
自分の力で食べられなくなったら、それに抗うことなく、
できる範囲で食事なり、水分なりを少しずつとっていけばいいのだと思う。
何がいいたいかというと、
むせこみがひどくなってきて、
食べられなくなってきたら、
胃ろうや点滴などの治療をムリしてやるよりも、
「自然に口から入れられる」分だけのものを摂取すればいい。
高齢者施設では食べられなくなったり、
水分摂取量が少なくなってきた人に点滴をすることがあるが、
そのせいで、むくみが強くなってくることがある。
これは、何を意味しているかというと、
いくら血管や皮膚から直接点滴で体に水分を入れたところで、
その人の内臓はもうその水分を吸収できなくなってきている、ということだ。
なのにムリして水分を入れたところで、
それは体が重くなって、水分のせいで体が冷えて、
吸収できなくなった水分が細胞外に染み出し、むくみ、
いわば、点滴せいで体が水浸しになって「おぼれている」状態となる。
これは「不自然な状態」だと私は思う。
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じゃあどうすればいいのか?
内臓機能の限界に抗うことなく、
「口から摂取できなくなったらそれを受け入れる」ということだ。
その生き方の参考となるのが、
『無病法』という本だ。
https://note.com/miniblog/n/n7dc4f6362a47
晩年まで極小食の生活を続け、病死ではなく、
晩年まで五感や頭脳、運動機能すべて健康なまま、
自然死で102歳まで生きたイタリア人の生き方を書いた本。
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私はこの人の生き方、死に方を参考にしている。
そして、死ぬときだけでなく、
私自身も日々断食を生活に取り入れることで、
「食べない」という状態に日頃から慣れている。
そのせいか、
高齢者が食べれない、食事量が減ってきた、
水分が摂れない、といったことに関しても、
それほど驚かない。
「人はもっと少ない食事量で生きられるはずだ」ということが、
自分の断食体験からも、『無病法』の本などからもわかっているからだ。
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私にとっては、
自然に死ぬこと、自然に治すこと、自然なものを食べること、断食すること。
それらはすべて一つの線でつながっている。
だから、
自分ではもう食べれらなくなったのに
無理やり食べさせられて、無理やり水分を入れられて、
「栄養を与えられ続けて苦しんで死ぬ」という最期は迎えたくない、
と考えている。
そのことについては、
私の拙著にも一部書いてあるので、気になる方はどうぞ☆