文章力(?)
湖池屋さんの「プライドポテト 神のり塩」を箸で食べながら書いている。何ご飯?と聞かれれば昼ごはんのデザート、だろうか。
あまりにもポテトチップスとしては名前が仰々しいなぁと思ったので購入してみたが、確かに普通の湖池屋さんのポテトチップスより2倍くらいは美味しい。
普通のポテトチップスよりやや厚めで、パリパリ感が強い。さすが"プライド"ポテトだけある。多分。
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題名に(?)がついているくらいだから、このnoteで投げかける問いに対して、まだ自分の中で答えが出ていない部分がある、というわけだ。
うまい文章とは何か、というありきたりな問いを投げかけたいというよりは、うまい文章をさも自分で作り上げたかのように書きたくない、というような話だ。
本の感想を書く際には文章を”引用”して感想を述べることがある。本の中の話というか内容を、どうにか自分の言葉でnoteに書き残そうとして奮闘している人は少なくないだろう。
たまにあることなのだが、「この人の文章、うまいなぁ」と思った時に、そのnoteの文章が本に出てくる文章ほぼそのまま、ということがある。
本の中に出てくるような考え方や感じ方に共感したから似たような結論になってしまっただけかもしれないが、本当はそれ、引用レベルでは?著作権侵害ギリギリでは?と思うことは少なくない。
自分がその本を読んだことがある場合だと余計に。
ものすごくどうでも良いことかもしれないが、ずっと文章を書くのがうまいなぁと思っていた人の文章が 実は他の誰かによって書かれた文章をあまりに模倣しすぎているものだとしたら、それはなんだかがっかりだ。
文章をうまく書けているように”見せようとしている”ような気がして、興ざめするのだ。
普段から言い方は悪いが少しカッコつけて、自分の文章に(良い意味で適度に)酔って書き続けている人ほど、そういう状況に陥りやすいのではないか。
まぁ私も人のことは言えないかもしれないけれど。
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言葉はどこから生まれるものなのかはよく分からない、というかどこから生まれるのかは曖昧なままで良いような気もする。
けれど、誰かの言葉を借りるときは その誰かへのほんの少しの尊敬と尊重が必要な気がする時がある。
言葉は誰のものでもないかもしれないし、誰にだって好きな言葉を選んで使う権利はあるのかもしれないけれど、
それでもこの言葉は”借りている”ものであるんだなぁ、と頭に入れておくべき時があるのではないかと思う。
誰かが自分なりに何かを表現しようとして言葉を生み出していく過程というのは素敵だと思う。
詩を読んでいると特に、言葉の使い方に個性があって、独特で、同じ風景でも こんなに多くの表現の仕方があるんだなぁと思いながら読むのは楽しい。
だからこそその言葉を貸してもらっている、という風に考えなければいけない時があると思うのだ。
参考にするのは良いけれど、模倣にはきっと意味がない。
もちろん文章の内容にもよるけれどね。
せっかく自分にだって言葉を探してそれを紡いで、自分の脳内を言語化することができる能力がそれなりにはあるんだから、その能力を少しでも伸ばせるような言葉の使い方を、選び方を、探していきたいと思うのだ。
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最近読み返すとどうでも良いようなことばかり書いてしまっているが、それだって言葉を選ぶことの繰り返しによってできあがっているのは間違いない。
なかなか外に出かけられなくて新しいものを発見できないでいるけれど、
身近なものや ちょっとした感情を言葉にしたいという気持ちは、ずっと今でも変わらないままである。