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思春期に戻って「個性」について考える

そういえば、むかし個性という言葉について考えていたことがあった。ご多分に漏れず思春期の頃だった。

個性的であることが分からなかった私

「自分の色をだす」「自分なりの意見をもつ」「自分を表現する」この言葉に悩んでいる友だちも多かった思春期を思い出すと、なんだか未解決の問題に触るような気持ちに今でもなります。

実は私は個性で悩んだ記憶がありません。いそいで付け加えますと、もともと個性的な女の子でイケてたとかいうのではありません。ただ単に個性で悩むということがピンとこなかったのです。だから友だちの前では私も話を合わせて、そういう悩みがあるふりをしていました。

個性を気にする必要がないほど個性的だったのではなく、むしろその逆だったと思います。好きな趣味やお稽古ごとはやってましたけど、趣味が高じてテレビや雑誌がインタビューに来たとかありませんし、習い事も有名なコンクールで賞をとったわけでもありません。

小学校の頃から、クラスで手を上げて個性的な意見を開陳したりすることもありませんでした。

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これを個性的と呼べるなら…←呼べない( U_U)

学校の成績はまあ普通で、たまにちょっといいことがありましたが、逆もありました。

高1のとき物理で8点を取りまして、仲の良かった佐藤さん田中さん(本人の名誉のため思いっきり仮名(爆))と「まあこんなもんだよね」と答案見せあってました。田中は5点、佐藤は確か4点だったな。私が一番じゃねーか。
おっほっほっほ( U_U)。

はいそうです(^o^)。
100点満点の成績です。

三人で朗らかに笑って、今日は外でお弁当でも広げるかあモードだったんですが、授業が終わってから先生が言いました。

「M(私の姓)、佐藤、田中。おまえら職員室に来るように」

先生は苦虫を噛み潰したような、それでいてかすかに微笑んでいるような素敵な顔して私達を呼び捨てにしました。

要するにわれらの物理の点数は「まあこんなもん」じゃなかったのですね。おそらくクラスワースト3。

イエーイ仲良し3人組だあ( U_U)。

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これを個性といえば個性を表すエピソードの一つかもしれません。そんなくだらない微笑ましいのは、いっぱいあるからね。

でも、私は個性に悩むというのが分からないという悩みを抱えていました。

ええ?それでええやん。

と思うかもしれません。

個性で悩まないことを それで済ませられるかというと…

そうもいかない。

真剣に悩んでいる友達の相談相手になれない。相手は当然にように私も「自分の色をだす」「自分なりの意見をもつ」「自分を表現する」で悩んでいるという大前提で、いきなりそういう話題を休み時間やお弁当のときに振ってくる。

何を頓珍漢なことを言い出すか分からない恐れがどこかにあり、私はその話題になると歯切れが悪かったと思います。そんなとき、何気なく言った言葉が友達をポカンとさせました。

日記でも書いてみたら?

「んじゃあさあ、日記でも書いてみたら?おそらく個性的になれるよ」

私は大して気の利いたことを言っているつもりもなかったので、お弁当みんなより早く食べ終わってお茶でも飲みながら言っていたように思い出します。

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「へ?日記書くと個性的になれんの?」

友達は怒ったのではなくて、まじめでびっくりしている顔でした。

ですので、私も割と本音の部分がサラッと言えたと思います。

「うん。少なくとも個性で悩むことはなくなるような気がする」

「Yちゃんみたいな(ややこしくてすいません名前の方の私の本名)個性的なんがそういうならそうなのかもな」

友達は頷きあってました。

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ん…?私は個性的なのか?

それはなんだかとても興味あったのですが、その場の話題にするのはそぐわない気がしたのでさらっと受け流しました。

「確かに自分に向き合うことにはなるよね」

さすが、なんというかな…

私は思うんですけど、悪意のない清らかな心と、邪心のないピュアな耳の持ち主っていうのは、頭いいんです。

話がそれますが、私の友達はみんな頭いいです。物理でひどい点数はとりますけど…。

【閑話休題】

頭の良さって、つくづく清らかな心と邪心のない耳だと思います。

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私としては、友達のその尊い反応のおかげで、かえって自分が個性について悩まないという悩みが吹っ切れたような気がしまして、それをみんなに言いたかったのですが、話が長くなりそうだったのでその場の雰囲気考えて話しませんでした。

その後話す機会もなかったけど、話せばよかったなと思ったりもします。だからいまこれ書いているのかな…。

でも、いいよね、こういうの。
私はこういうの好き。
私の定義する頭の良さってのは、物理は関係ねーんだよ。

頭のいい人は、気が付かないうちに誰かを救って、その結果知らないところで世界が好転している。
本人まったく気がついていない。
あまつさえ、「こいつできねえやつだな」とかいわれてる回数も普通の人より多かったりする。
笑わせんなよな、できねーしょーもねーのはあんただよ。

こういう頭の良さはほしいと思うね。
個性はよくわからんからどうでもいいけど…。

個性的であるということは結局自分を知ること

書くことが好きでした。日記は強制されるでもなく小学生からつけてました。

絵心はまったくなし。今でも絵を書くと、おひさまのしたにチューリップが咲いていて私が住んでる家がある、こんなのしか描けません。

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そういえば、楽器を練習し始めると休みの日には8時間くらいやっていて苦にならなかったです。

文章は上手に書こうとは思いませんでしたし、楽器はうまく弾こうとは思いませんでした。でも一人になって、自分を見つめる感覚が好きでした。

ブログを書いたり、noteを書くことが好きになったのも、生来の日記を書くことが好き、という感覚にあっているからだと思います。

個性は自己確認だな

個性とはつくづく自己確認だと思います。

青い鳥はどこにもいなかった。
家にいた。
心の家の鍵はペンや楽器だった。

開ければいいだけさ。

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小林秀雄のエッセイでこんなのあったな…。

個性というのは不思議な言葉である。
「変わり者ですね」とか普通に使われると、鼻持ちならんやつだなあいつは、みたいなニュアンスがあるけど、連れ添った古女房が「うちの人は変わり者ですから」とかいうと、途端にその言葉が輝きを増す。

個性とはおそらく外に求めるのでもなく、自分を支えるものでもないと思う。

そうしかなれない自分を精一杯肯定的に確認することだ。自分に向き合えばそこにあなただけの青い鳥はいる。

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noteをそういう場所にしていきたいな。

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