ポルチーニ茸のチーズリゾット
「物が見えるってどういうことか分かる?」
グラスに入った氷をストローでクルクル回しながらユウ君が言った。
「なに?急に」
「物が見えるっていうのは、光が物に当たって、その光が反射して自分の目に当たって、目の神経がそれを画像として処理することなんだ」
「知ってるけど。いきなり何なの?」
「光が動いているんだ。光はあちこちに飛んでいってる。その光を目で捉えることで、オレたちは物が見えている。音がどうして聞こえるかも分かるよね」
「知ってるよ」
「うん。空気が振動して、その振動を鼓膜が受けて、どんな音か認識する。だから音の場合は、空気が動いているということなんだ」
「それで?」
「静止し続けているものなんてないっていうこと。人間には知覚できないだけで、全てのものは、すごい速さで動いている。星の光は何億年前のものがやっと地球に届いて、オレたちはそれを見ている。
さらに、誰も動いていない静かな部屋の中でも、光や空気は常に止まっていない。ものすごい速さで動いている。
何も止まっていないんだ」
ユウ君がこんなことを話すときは、なにか言いにくいことを言おうとしているときだ。長い付き合いなんだから、大体分かっている。
「光や空気だけじゃなくて、植物も動いている。体も、常に動いている。振動しているし、毎日一兆個もの細胞が生まれ変わっていっている。ずっと止まっているもの、変わらないものなんて、何もない。
永遠に変わらないものなんて無いんだ」
「分かったわよ。それで何が言いたいの?」
「何が言いたいかと言うと、オレも止まっていられないって・・、思うってことなので・・、仕事、辞めます」
あっけにとられた。
本気で言ってる?
本気。
お金はどうするの?
何とかする。
子育てってお金かかるよ。
働かないとは言っていない。
「ここで止まっているのが嫌なんだ」
全くどうしてこんなこと言い出したのか。
何か変な本でも読んだのか。
考え直してほしい。
でも、おそらく、考え直してって言っても考え直してくれないだろうな。
「わかった。じゃあ、せめて1年間だけは仕事を続けてほしい。どうせ、何をするか決まってないんだったら、1年間かけて何をするか決めて、それから辞めても良いんじゃないかな」
「わかった。辞めるのは1年後にする」
ユウ君はニコッと笑った。
私は笑えるわけなかった。
2月10日。ユウ君が35歳になった日だった。
テーブルには空になったお皿が残されていた。ユウ君が、人生最高の一品だと称賛したポルチーニ茸のチーズリゾットが乗っていたものだ。
今は、リゾットも、あの独特な芳醇な香りも、跡形もなく消え去っていた。
息子のケンスケは、4月から小学生だ。私は専業主婦だった。
ユウ君が突然会社を辞めると言い出したので、ケンスケが学校に居る時間だけでも、自分も働こうと決めた。
さっそく次の日、買い物ついでに街中でアルバイトを募集している店を見て回った。
コンビニ、ファミレス、本屋、スーパーなど。
改めて探してみると結構選択肢はありそうだ。
「ねえ、どれが良いと思う?」
両方の手に買い物袋を提げたユウ君に聞いた。
「考えずに直感で決めたらいいと思うよ。未来なんて、考えても分かるわけないんだ。分かるはずないことを、考えて分かったつもりになる必要はない」
「家からの距離とか、時給とか、仕事内容とか、考えることはたくさんあるじゃない。それらを並べて、比較していくことが考えることで、より良い結果を出すためには必要なことなんじゃない?」
「大事なものほど、考えたところで分からないんだ。店長や一緒に働く人はどんな人か、どんな客が来るのか、実際に働いてみないと分からない。その店の経営状況なんかもね。
何より、一番大事なのは時給や仕事の中身じゃなくて、そこで働いた自分に何が起こるのか、なんだ。動くと、何かが起こるんだよ。それが何か分かるはずないんだから、考える必要はないだろ」
また変なことを言う。
以前はもっと現実的に物事を見ていたと思うけど、そんなユウ君はどこにいったのだろう。
でも、表情は柔らかい。
以前のユウ君なら、眉を寄せて一緒にうんうん唸って考えていた気がする。
それよりも、なんだかスッキリしてるように見える。
「直感で決めると言っても、どうすればいいのかわからないよ。どうするの?」
「その仕事をしている自分を想像するんだ。頭じゃなくて、心で。胸の辺りで。心で想像したとき、良い感じがするか、悪い感じがするか。それで決める」
試しにやってみた。
コンビニ、ファミレス、本屋、スーパー。
どこで働いている自分も、笑顔だけど、作り笑顔で、仕事を楽しめているようには思えなかった。表情はにこやかに、心の中はあれこれと次の仕事やケンスケのお迎えの時間を気にしている。忙しない。仕事なんて、どこでもそんなものだろうけど。
「どれも一緒ね」
そう言うと、ユウ君は空を見上げた。
小春日和。青白い空が一面に広がっている。
「遊園地だ。遊園地で働くのがいい」
ユウ君が空を見たまま言った。
「へ?」
「そんな気がする。」
朗らかな、屈託のない笑顔で私を見た。
私はあなたのその表情に弱いのです。永遠に変わらないものなんて無い、とか言わず、そのままでいてください。
「遊園地なんて現実的じゃないよ。どこにあるの?」近所に遊園地は無い。
ユウ君も、そうだね~、と笑った。
家に帰って、晩御飯の支度をしていると、幼稚園のママ友からメールが届いた。
来週の代休に、クラスのみんなで遊びに行く計画があるので、一緒にどうか、という内容だった。
土曜日に幼稚園で生活発表会が行われる。音楽や劇など、子どもたちが何か月もがんばった成果を見ることができる機会だ。私は、運動会より、生活発表会の方が好きだった。
運動会より、事前にがんばらなければならないことが多いと思ったからだ。
断る理由は無かったので、誘ってくれたお礼を伝えると、すぐに返事があった。
ジョイパークは、隣駅にある大型ショッピングモール「アオン」に入っている屋内遊園地だ。広いフロアに、幼児が安全に遊べる設備がたくさん置かれている。
遊園地、あるじゃん。
ユウ君が、ケンスケの髪を拭きながら風呂場から出てきた。
「ほら、髪の毛もちゃんと拭いてから!」
ケンスケはお風呂に行く前に観ていたアニメの続きを早く観たいようで、裸で駆けていった。
「ユウ君、来週の代休、幼稚園のお友達とジョイパーク行ってきていい?」
「いいよー」
「ジョイパークって知ってる?」
「知らないー」
「アオンに入ってる屋内遊園地」
「あー、知ってるー。行ったことないけど」
「私は前に一度行ったことあるよ」
「ふーん」
ユウ君は髪の毛を拭くのに忙しい。
「あ、遊園地じゃん」
ケンスケの髪の毛を拭き終わり、タオルを片付けようと洗濯機のある風呂場に入ろうとしたときに、振り向きながら言った。
なんだか、不思議な感覚だった。
ジョイパークに行くと、受付カウンターでアルバイトを募集しているチラシが目に付いた。
子どもたちがボールプールで遊んでいるのを遠目に見ながら、一番仲の良いママ友に、ここで働くのはどう思うか聞いてみると、家からも近いし、良いじゃない、と言われた。
ここで働いている自分を想像してみた。
コンビニやスーパーのときより、明るい気持ちで働いている自分が想像できた。
従業員が着ている制服を見ていると、自分も同じ制服を着て働くのだろう、と感じた。
家に帰ってから電話してみた。
翌日面接を受けることになった。
その日の内に採用の連絡があった。
ユウ君に伝えると、賛成してくれた。
ケンスケが小学校に入ってから、と考えていたが、さっそく来週から働くことになった。
とりあえずは、体験のような気持ちで週に2回だけ。
何もかもスムーズに進んだ。
私は、元々子どものことが好きだ。
学生時代に保育士の資格も取った。
でも、最終的に選んだ職業は地方公務員だった。
安定している、その情報に引っ張られた。
環境は悪くなかったが、仕事そのものを楽しいと思えたことは無かった。
そこでユウ君に出会った。
ユウ君は他の職員とは雰囲気が少し違っていて、新しい企画をどんどん出す、目立つ存在だった。
同じ部署で働いたとき、3年先輩になるユウ君を見て、自分は10年経ってもこの人のような仕事はできないだろう、と思った。人種が違う。
それでも、憧れた。惹かれた。
若手職員の集まりで交流しているうちに、
ユウ君と二人で食事に行くことになり、
つきあうことになり、
結婚することになり、
子どもができた。
その機会に退職した。
5月。初夏の空気が薫りだす頃には、ケンスケも学校に慣れてきて、私は平日は毎日ジョイパークで働くことになった。
久々の労働、しかも真新しい環境と職種。それでも、「楽しい」と感じられた。
何より、子どもたちが可愛い。
正直なところ、親は色々だが、子どもを見ると可愛いしかない。
どんな親でも、その子どもは可愛いのだ。
「子どものかわいさも、永遠ではないんだよね」
「当たり前のこんこんちき」
ん?言葉の使い方あってるか?
ユウ君はケンスケとブロック遊びしながら適当に答えた。
「変わるのを受け入れなくちゃ。誰でも、年を取って成長する。反抗期にもなる。老化もするんだ。そして、死んでいく」
「寂しくない?」
「寂しくない。ずっと赤ちゃんのままで変わらない方が、おもしろくない。いつか、楽しくなくなるよ」
「ずっと楽しいと思えないの?」
「ずっと楽しいままではいられない。変化しないままだと、喜びを感じられなくなるんだ。どれだけ美味しいものでも、毎日同じものばかり食べていると、喜べなくなるよね。違うものが欲しくなる。」
ケンスケはブロックで作った車を壊して、今度は飛行機を作ろうとしている。
ユウ君は車が入る家を作っていたが、今度は飛行場を作ることになった。
「もし、あなたは大人になるまで100年かかります。寿命は1万年です。なんて言われると気持ち悪くならない?これぐらいがちょうど良いんだよ」
そうかもね。
私は笑った。これぐらいがちょうど良くて、幸せなんだ。
夏休みも実家の両親に協力してもらいながら、働き続けることができた。
秋から冬に変わろうとする頃、ジョイパークから、正社員の打診があった。
正社員になると、企画や従業員のマネジメントをすることになる。
何でもするが、夜遅くまで働くことだけはできない、毎日夕方には退社したい、と伝えると、了承してもらえた。
仕事の内容も、待遇も申し分ない。やりがいもありそうだ。
ありがたい話だった。
ユウ君も喜んでくれた。
「良かったね。たぶん、そういう流れだったんだ」
「そうかもしれないね」
ユウ君、ありがとう。あなたの直感のおかげだよ。
ふいに、涙が込み上げてきて、瞼を押さえる。
私たちは病室に居た。
ユウ君に末期癌が見つかったのは、8月中旬だった。
9月に精密検査した結果、もう手が付けられる状況ではないと言われた。
「永遠なんてないんだ。全てのものは変化している。変わっていく」
病気の説明を受けた後、ユウ君はさらりと言った。そんな風に言わないでほしい。
「じゃあ、がんが無くなることもあるよね」
私は、意地悪だ。
「あるかもしれないね」
また、その笑顔。私が好きで、ずっと変わってほしくない笑顔。
私はケンスケを抱き寄せて、声を出さずに泣いた。
神様、なんとかしてください。
生々流転
所業無常
生きることは、常に変化していることとも言えます。
そんなの当たり前のことですが、つい、変化の良し悪しを判断して感情に流されてしまいます。
子どもが大きくなること、二本足で立てるようになることは喜ばしい。でも、自立心が芽生えて反抗期になること、親に意見するようになることには抵抗感を持ってしまう。
感情とは、つくづく自分勝手なものだな、と思ってしまいます。
でも、それを含めて生きることであり、自分の成長に必要なものなんです。
感情的になってしまうときは、自分は何を望んでいるのか、本当に大事にしたいものが何なのか、気づくチャンスです。
真理は何か。
簡単なことです。
誰でも知っています。
全てのものは動いていて、変化し続けていて、生物はその瞬間を感じて生きている、ということ。
光が絶えず動いているように、生命も常に動いています。
今、この瞬間に在ることは、どれほどの幸福でしょうか。
いつも、忘れないようにしていたいです。
Kindle出版に向けた試作第三弾❗️
今回もnoteの記事にしては長くなりました。。
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