九州の西側に、盆踊りでよく聞こえた「炭坑節」がある。 その歌詞の一節に「香春岳(かわらだけ)」という山が出てくる。 石灰岩の山で、セメントの原料がそこから採掘されるが、 長年の採掘で山の姿は変わり、いまでは、低く平たい山に。 幼少の頃から、職人さんの働く姿がスキだった私は 小学校の下校の途中、たとえば鍛冶屋さんを見ると立ち止まり じっと見入って、飽きずに時をすごす。 「ぼんぼん、はよう帰らんと、母ちゃんが心配するぞ」 いつも、そう声をかけられたものである。 親に負担をかけ
愚稿つづきで、失礼 〝失われた30年〟 生活社会と企業社会のあいだに溝ができて未解決のまま たとえばそのせいで 30年間、若い人たちが、経済成長を知らずにきたのです そして このままGDP(国内総生産)が成長せぬままだとしたら… ただならぬものを感じてしまいます その問題の核心が、何なのか、分からないようですね なぜか分かりますか 問題意識が喚起されない、としか言いようがないのです 産業の繁栄とか成長が、どういう景色かを知らないでしょう 〝豊か〟というのがどういう
30年まえの時代背景を思い出しています (私は大企業での在籍歴しかありませんが) 当時は、会社というところは、いまでは想像もつかないほどの堅い雰囲気だったのです 終身雇用/年功序列の制度下にあっては、そういうものだと認識できていました 認識というより、無意識のもと、そうであったというべきでしょう 学年の成績順、大企業順に就職先が決まっていくのには、幸運を確信できたものです 働くことは一生の問題で、就職できること自体、じつに貴重で、採用してくれた会社の人事部は神さまのよう
日記の一節です 24/11/7(木)時点の富士山情報によれば 遅れていた初冠雪が、ようやくうっすら姿を見せていました それが、今日あたり、その雪もまた何も無かったかのように消えています 雨のせいですか? でも、山頂付近には、雲はかかっていないですよね 今年は夏というより「激」というべき猛暑つづきで、気づけば、いきなり暖房の恋しい季節が、すでにちゃっかりと、うろうろしているようです (わぁ、こんどは暖房かい) と戸惑いながらも、ここは多少意地で、節電もかねて控えておりま
日本経営を救う——とても分かりやすい未来学です。 ◆つくるしかない未来未来は、その成否にかかわらず私たちがつくっています。 未来は、私たちを試しているのでしょうか。 奴さん、未来をどうしてくれるつもり? と。 自分の未来は、自分でつくるしかないですよね。 いわば 自業自得、善因善果にある因果律で決まるとしか言えません。 未来のカンバスは、宇宙のような無地・無色。 暗くもなく、明るくもなく、暗くもなれば、明るくもなる——わけです。 他の影響もうける。あるいは途中で事故
◆美味の秋 たまに思ったりすることでもありますが 腹が減るなんてことがなければ、どんなに楽だろうか、と思うことが、私にはあるのですが、それって、ヘンですかね(^^)v 「だって食べるって幸せじゃないか」、と言われそうですかね。 そもそも 美味というのは「いのちの味」という意味なんですよね。 「美」というのは「大きな羊」と書き、それは、神にささげる生け贄を意味しているようです。 自然のしくみ、生態系・食物連鎖への感謝を表す捧げものがそれなんですね。 つい「美味しい」と言
◆思いをはせる秋 「秋」というのは「fall」。 葉が落ちる季節をさすところから、そうよぶといいます。 一葉落ちて天下の秋を知る—— という、淮南子(説山訓)の一節にもある秋の概念。 前兆によって後にくるものを察するという意。 云うまでもなく、印象的な部分は「一葉落ちて」の光景でしょう。 たんなる木の葉のみならず、それにたとえることもあります。 何を、落ちる一葉と置き換えて思いを馳せるか、ということも少なくありません。 決めつけるわけでもなく、ただ思い浮かぶのです。
25~26年前、季節は秋のさなか この日、一年ぶりの会場までの、タクシーの車窓に映る箱根の山肌に、どこか、違和感を覚えながら季節の景色を見渡していました。 (なんだろう。こんなものかな~) 赤や黄色の紅葉を間近で楽しむつもりが、その高揚感に恵まれないのです。 色づき前という感じでもなさそうですが、ならば。これはどういうことなのか、と知りたくなってしまいました。 すると 森の沿道の木々に接近して目の当たりにできたものは、なるほど、でした。 紅葉というより、それとは趣を異
いま少し、「eeサイクル」をブレークダウンしてみます。 それが含蓄するところ大なんです(独自路線の究め方です(^^)v)。 ◆シーズとニーズのリンク成長経営に必要な種の企画には、シビアな管理が求められますね。 魔法の杖を一振りして答えが出るなら楽しいのですが、そうはいきません。 「我が社はAI(人工知能)で行く」 しかし、その効果はAIの使い方で違ってくることは否定できません。つまり、ソートウェアの精密さと生の大脳、それとの連繋のあり方で効果は決まる、と考えます。 ある
常識は変わる(Ⅲ)の つづきです。 ◆「種と糧」の符合 「シーズ:ニーズ」、「プロダクト-アウト:マーケット-イン」 懐かしい語呂集。我々の研究室にて、そういった論議が頻繁に飛び交うようになったのは、1971年頃(50年以上前)でした。 シーズ、ニーズを二項対立でとらえるようになった新時代。 当時は新鮮な論議であったと言えるし、ニーズ思考を意識していったものです。 しかしいま、その見方の常識が変えられる時期でもあります。 という感性が生まれても不思議ではない、とする予
引き出しを開けると、こんな独り言が…。 ◆事業と「種(しゅ)」「種」は、一つには「seed:種」の意味があります。 他方で「species 種」の意味があります。 断定的ですが、「種」こそ、繁栄の構成要素といえます。 いうまでもなく、種は生態系における個体の独立した単位です。 とりわけ事業にとって、「しゅ」は「たね」より先行する存在です。 「たね」は、「しゅ≡るい」の創造によって遺るものです。 (異論噴出(^^)v) 生態系の繁栄というのは、「種別化/類別化」と棲息の
(以下も、取るに足りない独り言です) ◆多数派の方向論に疑問を 世の中には、「あれっ?」という類の、見過ごせない事象があります。 知的・統計的な感覚ではなく、胸騒ぎ的な電波が教えてきます。 一般的な視界に入らない、外されがちな事象があるのです。 口外・公言はしません。考えすぎということにしておきましょう。 5年、10年は自分のなかに仕舞っていることもあれば もっと短期間に、「やっぱりか」と納得し得る事象があります。 それがどういうものかは、言えません。よくない話だから
◆真実は正しい ガリレオ・ガリレイが、望遠鏡によって地動説を説明する以前に、コペルニクスの地動説はそれより先行していた。 哲学者カントは、コペルニクスの地動説(転回説)にたとえて、認識論(人認識は、物事の見方・うけ止め方によって違ってくる)を唱えている。 哀しいかな、コペルニクスもガリレオもともに、生前のうちにそれが公認されることはなかった。 世の中とは、そういうものだろう。 いわば、それが「カントの認識論」、コペルニクス的転回説である。 ちがう、と言えばちがう。そう
過去の景色は、山や田や畑、田んぼや原っぱでいっぱい。 そこを道が走り、川が流れて、何の変哲もない。 360度見渡しても、同じく、ただただ、それだけのこと。 秋には、それが枯草色に変わり、夕刻には「虫の声」。 都会の秋なら年中変わらず「居酒屋の声」かな? 虫の声に釣られて 草むらの根っこまで顔を突っ込むように 虫の居場所を追っかける。 葉っぱの先から根っこまで、居るようで居ない声。 そうやって、暗がりで、静かな虫の声と戯れる。 上空を仰げば、煌めく宵の明星が想い浮ぶ
◆プレゼントとは何か プレゼント(present)には、いくつか語義がある。 〇現在、いま、現在形、出席している 〇贈り物 〇贈呈する、進呈する、プレゼンする、提案する、提出する 砕いてとらえれば、それぞれは 〇「私はここにいるよ」 〇「私からの気持ちです」 〇「私のことを分かってね」 ちなみに、さらに平易に括ると 「(自分を)相手の目の前にあるようにする」 ようは、「自分の存在を認めてもらいたい」。 「自分」を知ってもらいたい。 おもしろい。それがプレゼントの本
◆過去は砂漠の世界 こころがオアシスを求めている。 ごまかしはきかない。私のいまはそうなのだ。 なぜそれほどオアシスを求めたがる。 過去で、乾ききったこころがそうさせている。 とりわけ 歩んできた歪だらけの境遇を思い返す。 昭和、昭和とその古さが笑い種にされるが 戦後のベビーブーム以降の人間たちは ただ、まえだけを見て、建設に関わってきた。 それなりに、互いに、懸命に関わってきた。 そのなかの運不運で、有利不利も分れていく。 不運で不利な「くじ」を引いた私など 歪