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常識は変わる(Ⅰ)



◆真実は正しい


ガリレオ・ガリレイが、望遠鏡によって地動説を説明する以前に、コペルニクスの地動説はそれより先行していた。

哲学者カントは、コペルニクスの地動説(転回説)にたとえて、認識論(人認識は、物事の見方・うけ止め方によって違ってくる)を唱えている。

哀しいかな、コペルニクスもガリレオもともに、生前のうちにそれが公認されることはなかった。
世の中とは、そういうものだろう。

いわば、それが「カントの認識論」、コペルニクス的転回説である。
ちがう、と言えばちがう。そうだ、といえばそうである。

日常を鑑みても、重大な問題にもかかわらず、そういう認識論による未解決問題は少なくないのである。

それでも、真実は真実。

なんとガリレオの死後、約350年経った頃、ローマ教皇庁の裁判の見直しによって、その地動説はようやく認められ、日の目を見る。

350年だよ! ——と驚きたくなる。
たとえば350年前といえば徳川綱吉の時代。その200年後が明治時代のはじまり。その150年後のいまが350年後。その間、事実が通用することはなかった、というお話である。

人類の進化の速度。

マジョリティと権威と真実の関係は、それほど遠い間柄で、容易に溶け合わないものであることが分かる。

◆それでも霊力は励み


コペルニクスにもガリレオにも、霊力があった。
お陰で、かれらの説は衰滅霧消することなく、真実と合流したのである。

霊力は、正しさにはよく利き、不徳には無作用である。
そこは、いずれ科学や時間が解決してくれることとなり、マジョリティや権威は、そのときはじめて観念する。

それが人類の進化が日の目を見るとき、パラダイム-シフトを可能にするときである。
人類の科学というのは、完全なものになり得るのか。
地球外生命体のなかには、完全な科学が存在するのだろうか。

人類のどんな科学者も、結局のところ、最後は祈る
神社・仏閣で手を合わせ、おみくじ、お守りを買って、自分の幸福や無事を呼び寄せようと真剣に祈願する。

あるいは、初日の出、流れ星を崇めながら、自然の力にあやかろうとする。
そうして夢見や占いに、最後はワラにもすがって、成功を祈る。

こころの片隅で、励みの霊力に依存しようとするものである。

太古の昔、サルと分かれて森を出た人類は、草原を歩きつづけた。
歩きながら、霊力で生きていく自信だけはあったのだろう。

◆常識には歴史がある


ナニが常識か」など、時代の弾みで変わるもの。
そこに「ナニが絶対か」などない。

絶対などなくて、振り子はただ行ったり来たりする。
ウソだって、行ったり来たりする。
そんなところに、いずれ歴史が、振り子を止めにくる。

諸行も無常であるから、常識はまた変わる。
ナニかが原因で、常識の構図が変わるのである。

とりわけ
いまは、世界も身の周りも、カオスの入り口にあるようだ。
「ナニが常識か」も、未来も、分からない。

そもそも「人類とはナニか」さえ、まだ分かってはいない。
絶対的なことを知り得るかどうかなど、分かりはしない。

◆人類のロジックは


人類はナニを目的にロジックを組み立てるのか。
少なくとも、困ったときは「目的」をお供にする。

安定か、平和か、遊びか、戦いか、トライか…
人類は、その設定が任意なだけに、ベクトルも散漫。

いずれの目的(=基軸)で
スキーム(図式)とシナリオ(効果と効率)をつくすのか。
力のかぎり、ぜいのかぎり、霊力のかぎりをどうつくすのか。

基軸➡スキーム➡シナリオ➡アクション➡フィードバック
そのなかで、基軸を変え得るか。

サルは、森と生態系を大切にすると宣言した。
人類はそれに同調せず、森を飛び出して勇往邁進した。

人類は、「ポゼッサー(possessor:所有したがる者)」なのだ。
なかには
他人の考え、さらには悪霊までも、所有の対象としたがる。

それほど所有したがる人類のロジックを察知したサルは
驚愕のあまり木を駆け上り
あまりの、人類の強欲さに、呆れ返ってしまったという。

そんなポゼッサーでありながら
なんと、人類は「平和欲」だけはもち合わせていないのか。

戦い」を様式の基軸にするかぎり
勝利と全体の平和は、相容れない者同士である。
つまり、平和は到来しないのである。

その辺りに、恐竜によく似た欲望像が見え隠れする。
もしや、人類の未来も、恐竜と同じ運命を辿るのか。

革命をはかるには、突然変異を待つしかない。

ロジックの目的をどこにおいて、それが現れるのか。
安定平和遊び戦いトライ

戦い」を外すべきであることに異論はない。

ロジックの力の生み方に不思議な法則がある。
それは、「物分かりのよさ」である。

下手な大人では、それを見出し得ない。
ふつうの理屈では、とてもクリアできないのである。

過ぎたるは及ばざるがごとし——
そこに「物分かりのよさの本質」があるというもの。

それが
ロジックの自然淘汰を可能にする突然変異である。
ここまでくれば、進化論のダーウィニズム。

もっとも強い者が生き残るのではない。
もっとも変化に敏感なものが生き残る——

成長経営とてしかり(※)。
それは戦略論や競争原理の様式ではない。

自然淘汰を繁栄できる突然変異が大切なのである。
それが「基軸改革の考え方なのだ。




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