もはや秋へと(Ⅲ)
◆美味の秋
たまに思ったりすることでもありますが
腹が減るなんてことがなければ、どんなに楽だろうか、と思うことが、私にはあるのですが、それって、ヘンですかね(^^)v
「だって食べるって幸せじゃないか」、と言われそうですかね。
そもそも
美味というのは「いのちの味」という意味なんですよね。
「美」というのは「大きな羊」と書き、それは、神にささげる生け贄を意味しているようです。
自然のしくみ、生態系・食物連鎖への感謝を表す捧げものがそれなんですね。
つい「美味しい」と言ってしまうのは、「いのちをいただきます」という表現なんですよね。
秋は果実に恵まれ、あるいは米などの穀物が収穫できます。
そんな循環と恩恵に浴しての「いただきます」の対である御礼なんですね。
秋というのは、美味を堪能する収穫の季節なんですね。
美味こそ神なのだ、というわけですね。
そこに「いただきます」と「捧げる生け贄」の連鎖があるという。
農耕民族の生活様式は、それで成り立ってきたと言えるのでしょう。
あるいは、秋は、気候の助けもあってお腹が空きます。
幸いかな、そういうわけで美味の秋ということになるのでしょう。
◆腹が空くのなら
何もしなくても、生きているだけでも腹は空きますね。
生きるってそれだけで、エネルギーが必要なんですよね。
それが生命体・いのちというものなのでしょう。
「考えて」「動いて」「考え直して」「動き直して」の毎日。
私たちは、無意識にも多く働いているわけですね。
それができる「能力」「体力」「基礎代謝」にエネルギーは消費します。
腹が空くのは当然ですよね。
その腹を満たすために、生産等の産業でエネルギーを消費して暮らしているわけですね。
人類はそうしたくて、サルと分かれて森を出たのでしょう。
むろんその行く先については、豊かさ「需要と分配」の連鎖によってできる、より豊かな社会をめざしたわけでしょう。
ようは食の環境を豊かにしたかったわけなんですね。
豊かさというのは、生活社会を明るくできるものでしょう。
その豊かさがまた、さらに好循環の質を形成してくれるわけでしょう。
そして、社会のこころに余裕ができるでしょう。
人類は、それを想い浮かべながら草原のなかを歩きつづけたのだと思います。
でも、やってみると、さまざま難しい課題が山積してきます。
だから、そのための調和・調整が必要なんですね。
奪い合ったり、滅し合ったりと、そんな競い合いをなぜつづけるのでしょうか。
それを改めるための常識を創造しなくてはなりませんね。
それこそが、迷える人類の出口というものではないでしょうか。
いままさに政界は、そこらあたりに異変が起こりそうな気配で
その突然変異によって、何かが進化しそうな兆しを感じます。
それは蜃気楼か、それとも現か。
しかし、この好機を逃してはならないと思います。
腹が空くのなら
機を見るに敏。ぜひとも革新のシナリオにシフトしてほしいものです。
つまんない話で、どうも失礼しました。