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第四十五節 教団と手を切る男、教団に挑む女 【大罪人の娘・前編(無料歴史小説) 第参章 武田軍侵攻、策略の章】
武田信玄は、息子・四郎勝頼と最後の言葉を交わし始めた。
「息子よ。
もし、織田信長との和平が成立しなかったときは……
どうする?」
「どうする、とは?」
「座して死を待つわけではあるまい?」
「当然でしょう」
「そうならば!
教団との結び付きを保っておいて欲しいのだが、どうじゃ?」
「あの本願寺教団と……」
「もう一度、信長を釘付けにする状況を作り出すことさえできれば……
勝ち目は十分にある。
そなたには類まれな軍略の才があり、武将としての本能を極めた武田四天王もいる。
頼む。
息子よ。
石山本願寺を立ち上がらせて信長を釘付けにし、今度こそ家康を!」
「はっ」
◇
自分の意識が徐々に遠くなっていくのを感じながらも……
父は息子に語りかけていた。
もちろん、その声が息子に届くことはない。
「そなたは……
教団と手を組むつもりなど、毛頭ないのであろう?
『己の利益のために存在もしない神を騙って民を操り、政にまで口を出す連中と手を組むなど、死んでも御免だ』
こう決めているのであろうな?
それが、そなたの武人としての矜持ならば……
貫けば良い。
そのために武田家を滅ぼしてしまったとしても、わしにそなたを叱る資格などない。
そもそも。
この状況を作り出したのは、わしのせいなのじゃ。
弟の信繁にこう誓った。
『甲斐国を守るため……
わしは、絶対的な権力者[独裁者のこと]を目指そう』
と。
純粋な動機ではあったが、数々の失敗を重ねた。
夫を騙し討ちにされて心の病を患った妹の禰々、良心の呵責に苛まれて死に急いだ弟の信繁……
そして。
己の家の安寧を図って今川義元が立てた企てたを見抜けず、長男の義信までも死に追い込んでしまった。
加えて。
武器商人と手を組んだことで、奴らに織田信長の愛娘を殺す企てを練る機会を与えてしまい……
結果として愛娘は貴重な命を散らしてしまった!
わしは、どこかで選択を間違えてしまったのだろうか?」
薄れゆく意識の中で……
弟が、妹が、長男が、信長の愛娘が、走馬灯のように映っては消えていく。
最後に登場したのが、妻である三条の方であった。
彼女を最初に見たときの光景が蘇って来る。
「何と美しい……
これが、京の都の女子なのか」
思わずこう呟いていた。
その日の自分は、美しい女性を妻に迎えた喜びに満ち溢れていた。
『一目惚れ』であった。
しばらく経って分かったことだが……
彼女の魅力は、その美しさだけではなかった。
それから少し時間が経ち、一人の家臣が語りかけて来る。
「奥方様は大変にお美しいだけでなく……
周りにいる人々を包み込むような、温かくて穏やかな『人柄』をお持ちとの評判にございますぞ。
立て続けに3人の息子と2人の娘をもうけられるとは、何と仲睦まじい!
これからも、ずっと奥方様を大切になさいませ」
またしばらく時間が経ったようだ。
見ると、美しい妻は悲しげな表情をしている。
「ああ……
あのときのことか」
妻は度重なる不運に見舞われていた。
次男が失明し、三男が病死し、北条家に嫁いだ長女が離縁され、そして……
長男が自害したと聞かされた。
「太郎義信が自ら命を絶った!?
そんな……
どうしてこうなったの!?
あなたは、太郎に生きて欲しいと願っていると仰ったではありませんか!」
妻は珍しく感情的になって責めてきた。
「わしのせいではない!
わしは、くノ一[女忍者のこと]の望月千代女を遣わしたのじゃ。
それでも止められなかった。
致し方ないではないか」
「あなたが、真に生きて欲しいと願っていたなら……
どうして!
どうして、あなたが行かなかったのですか?」
そして、また時間が経った。
5年くらい前だ。
妻は重い病に侵されていた。
度重なる不運と、最愛の息子に先立たれた心痛のためだろうか。
「わしは……
妻に、もっと優しい言葉をかけるべきであったのでは?」
苦い後悔が襲う。
「国を守る前に、わしは……
最も身近にいて、最もわしを支えてくれた妻に……
もっとすべきことがあったのではないか?」
また苦い後悔が襲う。
「もう一度……
もう一度、そなたとやり直す機会が欲しい。
そなたをもっと大切にしたいのだ。
だから、わしを許してくれ……」
武田信玄はようやく……
最も大切にすべき存在が、誰であったかに気付いたのだろうか?
夫の意識から、妻の姿が消えていく。
消える直前……
一瞬だけ妻が笑顔を見せたような気がしていた。
そして。
息が、止まった。
1573年4月。
武田信玄、死す。
享年53歳であった。
武田信玄、辞世の句。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
これは、以下のような意味である。
「大抵は世相[世の中の状況]に合わせて生きていくしかないが……
だからといって人目を気にして上辺だけ取り繕う[表面だけ良く見せる]ような生き方をしてはならない。
自分にとって本当の正しい生き方を、『自ら』動いて探し続けよ」
と。
◇
少しの間だけ……
ときを、2年後へと進める。
1575年の晩秋。
その宴は、まさに宴もたけなわとなっていた。
宴の場所は摂津国の有岡城[現在の兵庫県伊丹市]である。
織田信長の実質的なナンバー2である明智光秀の長女・凛と、摂津国の大名である荒木村重の嫡男[長男のこと]・村次との婚儀だ。
国中から大勢の参列者が参加し、豪華な食事や高価な酒が振る舞われ、能や猿楽が催された。
「荒木殿と明智殿が結びつけば……
この国は安泰ぞ!
此度の婚儀、真に目出度い!」
「その通りじゃ!
それに、花嫁も実に美しい!
村次殿が羨ましい限りよ!」
宴が盛り上がるのとは対照的に……
花嫁の後ろに控える一人の女が、冷めた目で周りを見ていた。
凛の侍女頭・阿国である。
◇
参列者の名簿を見た阿国は、あることに気付いていた。
「この中に『仇』がいる!」
周りに聞こえぬよう呟いたつもりではあったが、横にいる侍女の比留に聞こえてしまったようだ。
「仇?
一体、誰のことです?」
「比留。
この摂津国には……
加賀国[現在の石川県]を蹂躙し、わたしの両親を殺した仇がいるのです」
「それは、もしや……
石山[現在の大阪市中央区]の地に総本山を置く本願寺教団のことでしょうか?」
「名簿の中に、教団の坊官の一人である下間頼廉がいました。
わたしの仇が……
目と鼻の先にいる!」
「ええっ!?」
◇
男たちの会話から、仇のいる位置に勘付いた阿国は……
同時にその男の観察を始めた。
「下間頼廉は、教団の中でも抜きん出た実力の持ち主だとか。
その噂は本物かもしれない。
確かに、只者ではない気配を漂わせている……」
阿国の目が鋭くなった。
「そうだとしても。
わたしは、絶対に負けるわけにはいかない!」
突然、その男は花嫁の方を向く。
花嫁の後ろに控える阿国と、もろに視線が合った。
阿国の放った殺気があまりに凄まじいものだったからなのか?
男は、花嫁の元へ向かって歩き出した。
◇
「凛様。
それがし……
下間頼廉と申します。
真におめでとう存じます」
強張った表情の阿国に対し、凛は満面の笑顔を見せた。
「頼廉殿?
あ!
一際、豪勢な贈り物を届けてくださった御方ですね!」
「我が石山本願寺は、かつて織田信長殿と一戦交えましたが……
勅命[天皇の命令のこと]により和平を結んでおります。
我らは今や、お『味方』ですぞ」
「存じております。
頼廉殿」
「ただし。
後ろに控えている侍女の方は、凛様とは違うお考えのようですな」
頼廉は、阿国の自分への敵視に気付いたのだろうか。
凛は慌ててそれを否定する。
「ん?
阿国が?
それは誤解にございましょう……
ね、阿国」
「はい」
「それなら安心致しました。
凛様、阿国殿。
このことをよく覚えて頂きとう存じます」
「何でしょうか?」
「人々を一つにするためには、『敵』が絶対に必要であるのは分かりますが……」
「敵!?」
「我ら石山本願寺は、最も都合の良い敵ではありませんぞ」
「頼廉殿。
人々を一つに?
最も都合の良い敵?
一体、何を仰っているのです?」
「……」
「そもそも。
わたくしたちは、お味方ですよね?」
「そうでしたな。
戯言を申しました。
お許しを」
◇
「凛様。
申し訳ありません。
わたしが殺気を放ったばかりに……」
頼廉が離れたのを見て、阿国は凛へ詫びた。
「阿国。
あなたの、今すぐ親の仇を取りたい気持ち……
わたくしには痛いほどよく分かります。
しかし。
今は、教団を『欺く』ことに専念しなければなりません」
「仰る通りです。
凛様。
それにしても……
見事な芝居[演技のこと]にございました」
「阿国、比留。
この国を『一つに』するために……
力を合わせて、あの教団を倒しましょう」
3人の女が、教団へ挑む決意を新たにした。
【第参章 武田軍侵攻、策略の章】 終わり