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第四十四節 織田信長の愛娘が産んだ男子を武田家の当主に 【大罪人の娘・前編(無料歴史小説) 第参章 武田軍侵攻、策略の章】
待ちに待った書状がついに来た。
武田信玄への、教団の総本山・石山本願寺からの回答である。
内容は大きく3つ。
1つ目は……
「織田信長との和睦を命じた勅命[天皇からの命令のこと]に逆らう行動は、できるだけ避けたい」
ということ。
人気で成り立つ教団にとって一番怖いのは、その人気を失ってしまうことである。
だからこそ。
人気のない幕府よりも、人々から崇敬の念を抱かれている天皇の方がはるかに気を遣う相手なのだ。
これこそが。
人気を基盤とする集団が持つ致命的な『弱点』と言えるだろう。
最優先すべきは人気の維持であり、属している人間の気持ちなど『後回し』なのだから。
人気のある集団は一見すると輝いて見え、憧れの存在のように映っているが、当の本人は窮屈で辛い思いをしているのかもしれない。
加えて。
人間は、自分の気持ちの中でも特に『良心』に逆らう行動に耐え難い苦痛を覚える生き物だ。
動物には一切持ち合わせていない正義感という厄介な代物が……
ときとして、自ら死を選ぶような行動を引き起こしてしまう。
こう考えれば、人気を取ったり維持したりすることが人間本来の『生き方』でないことは明らかである。
ただし。
良心が欠けている者、あるいは自分を棚に上げて他人に対してだけ生き生きと正義感を振りかざす『人でなし』は、人気のために他人を傷付けたところで何の痛みも感じないのだろうが。
◇
2つ目は……
「長島[現在の三重県桑名市]の地で起こっている一向一揆と連携して欲しい」
ということ。
総本山の石山本願寺は勅命に逆らえないが、長島の地で起こっている一向一揆は地方の民が『勝手』にやっているとの解釈らしい。
当時の日本各地で発生していた一向一揆が、いかに連携を欠いていたかを自分から暴露したようなものである。
そして。
最後の3つ目が……
「総本山が、仏敵の織田信長を討滅する日は『いずれ』やって来る。
その際は是非とも天下無敵の武田軍も行動を共にして頂きたい」
ということ。
これを読んだ父は落胆を隠せない。
「奴らは能無しなのか!?
いずれやって来ると思っているのなら、なぜ今立ち上がらない?
我が武田軍が信長の喉元にいる今こそ立ち上がるべきであろう!
人気を失うのが怖い程度で、信長を倒す千載一遇の好機を逃すとは……
補給に失敗して撤退を余儀なくされた朝倉軍よりも『質が悪い』!」
「父上……」
「そうか。
そなたの申す通りであった、息子よ。
奴らは戦の素人であり、結束力のない烏合の衆に過ぎなかったか……」
こうして。
武田信玄は、甲斐国[現在の山梨県]への『撤退』を決断した。
◇
撤退中の信玄は、途中の信濃国・駒場[現在の長野県下伊那郡阿智村]の地で己の死を覚悟する。
「息子よ。
この西上作戦を立てたときから……
わしには、ずっと考えていたことがあった」
「何を考えていたのです?」
「信長包囲網を築いて織田信長の大軍を釘付けにし、孤立無援の徳川家康を武田軍3万人で滅ぼした『後』のことじゃ」
「討伐命令によって信長を幕府の奸賊とし、包囲網を築いて信長が援軍を出せない状況を作り出した上で、信長の盟友である家康を討つ。
盟友を見殺しにした男として、信長の評判を地に堕とすことはできましょうが……
それで我ら武田家が織田家に対して圧倒的な優位に立ったわけではありますまい」
「うむ。
依然として信長が鉄砲の弾丸と火薬をすべて握っている『事実』に、変わりはないからな」
「そして。
鉄砲の弾丸と火薬を入手できない事実にも、変わりはありません。
これ以上、織田信長と戦い続けていれば……
我らは圧倒的な『劣勢』に陥るでしょう」
「……」
「だからこそ。
この戦を、どこかで終わらせねばなりません。
それがしは、ありとあらゆる手を尽くし……
織田家と『和平』を結ぶ方法を模索し続けたいと存じます」
「戦を始めることよりも、戦を終わらせることの方がずっと難しいもの。
息子よ。
済まない……
そなたに一番難しいことを押し付けてしまった」
「織田家との戦を終わらせるためにも。
まずは、父上。
武田家の当主を……
それがしではなく、それがしの息子である信勝に」
「何っ!?
『織田信長の愛娘』が産んだ男子を武田家の当主に据えろと?」
「信長は、我が武田家を不倶戴天の敵と見なしておりますが……
愛娘が産んだ唯一の子供を殺そうとするでしょうか?」
「なるほど。
愛娘に対する信長の愛情が深いほど、その忘れ形見を殺せるはずがない……
要するに。
信長の感情を『逆手』に取るわけだな?」
「父上。
信長の愛娘が産んだ男子、信勝を武田家の当主とする意思を……
一刻も早く武田家中にお伝えください。
その『声』は必ず、信長へも届くはず」
こうして。
わずか5、6歳に過ぎない少年が武田家の当主となり、少年が成人するまで勝頼が当主を代行するという摩訶不思議な当主交代が行われた。
◇
「武田家を不倶戴天の敵と見なした織田信長が……
愛娘が産んだ唯一の子供を殺そうとしたのか?」
この答えは、およそ10年後に明らかとなる。
残念なことに。
勝頼が懸命に模索し続けた和平は成立せず、鉄砲の弾丸と火薬を入手する手段を根こそぎ奪われ続けるなどの『策略』で弱体化した武田家は、圧倒的な劣勢に陥った。
満を持した信長は、数万人もの大軍を率いて甲斐国へと攻め込む。
勝頼と信勝の親子は……
小山田信茂の裏切りで天目山[現在の山梨県甲州市大和町]へと追い込まれ、信長の家臣・滝川一益の軍勢を相手に奮戦したが最後は親子そろって自害した。
「わしは、勝頼と信勝の親子を討つために大いに貢献したぞ!
褒美が楽しみよ」
こう考えた小山田信茂と滝川一益は『どうなった』か?
まず1人目の小山田信茂。
意気揚々と信長の元を訪れたが、信長の対応はあまりにも冷酷であった。
待てど暮らせど面会できない。
ようやく面会できたと思ったら、相手は信長の息子・信忠であった。
摩訶不思議なことに……
信忠は、小山田信茂に対して激しい怒りを露にする。
「この下衆がっ!
どの面下げて挨拶しに来たのじゃ!
うぬは長い間、武田家に仕えながら……
わずかな褒美に目が眩み、主を裏切って2人を『死地』へと追い込んだのか!」
即座に処刑を命じる。
「この屑を……
今すぐ叩き斬れぇ!
家族も同様に斬り捨ててしまえっ!」
こうして。
小山田信茂に加え、年老いた母、妻、幼い子供に至るまで処刑された。
続いて2人目の滝川一益。
信長の忠実な家臣として各地の合戦で活躍し、不倶戴天の敵である武田家討伐では抜群の功績を上げた。
誰がどう見ても最大級の褒美をもらえる……
はずであった。
「わしが一番欲しいのは、珠光小茄子という『茶器』よ。
茶器があれば……
京の都で茶会を開き、京の都人たちに一流の武将と見なしてもらえる。
これだけの功績を上げた以上、所望して何の問題もあるまい」
一益自身もこう確信していた。
既に明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀などが茶器を受領しており、これに滝川一益が続くと思われたが……
結果は摩訶不思議であった。
京の都からはるかに遠い上野国[現在の群馬県]を与えられ、名馬と刀こそ与えられたが、肝心の茶器は一つも与えられない。
「遠国[京の都から遠い国のこと]に置かれ、茶の湯[茶会を開く権利のこと]の冥加も尽きた。
わしの功績は光秀や秀吉らと比べてそこまで劣っていたと?
あまりにも酷い仕打ちではないか!」
こう悔しさを滲ませたようだ。
愛娘が産んだ唯一の子供の殺害に関与した小山田信茂と滝川一益への織田信長の対応は、非常に冷酷であったと言わざるを得ない。
今となっては信長の本心を知りようがないが……
起こった事実は、勝頼と信勝の親子の死を望んでいなかったことを示している。
◇
信玄と勝頼の親子の会話に舞台を戻そう。
「息子よ。
もし、信長との和平が成立しなかったときは……
どうする?」
「どうする、とは?」
「座して死を待つわけではあるまい?」
「当然でしょう」
「そうならば!
教団との結び付きを保っておいて欲しいのだが、どうじゃ?」
「あの本願寺教団と……」
「もう一度、信長を釘付けにする状況を作り出すことさえできれば……
勝ち目は十分にある。
そなたには類まれな軍略の才があり、武将としての本能を極めた武田四天王もいる。
頼む。
息子よ。
石山本願寺を立ち上がらせて信長を釘付けにし、今度こそ家康を!」
「……」
【次節予告 第四十五節 教団と手を切る男、教団に挑む女】
四郎勝頼は、こう誓います。
「勝利のためとはいえ……
己の利益のために存在もしない神を騙って民を操り、政にまで口を出す連中と手を組むなど、死んでも御免だ」
と。